First Interview With Buten Tai Wan

In this 1st interview Buten Tai Wan briefly discusses his early life and military career in Cold War Taiwan.


5月17日(1回目)(27分24秒)

A: 僕はあの、台湾の若者その時、兵隊はまだ戦ってないのよ。まだ訓練してるの。戦ってるのは義勇隊しかないの。

Q: お友達かご兄弟で義勇隊に行った人っているんですか?

A: もうおらないよ。

Q: 今っておいくつですか?

A: 96、、あ、95才。民国13年だから。

Q: すごい。お元気ですね。

A: でももう無理だ。危なくて、もう

Q: 原住民のおじいさんおばあさんは皆元気でびっくりしました。昔は学校に行ってたんですか?

A: 昔は一緒だったよ。日本のは六十何年ぐらい台湾におったね。

Q: 何学校ですか?

A: 小学校。僕はじいちゃん、もう過ぎたんだ。勉強しないのもう。まだ本当の学校は2、3件しかないよ台湾に。あまり学校行かない。歩いて行くんだよ昔。

Q: それは日本人と一緒ですか?

A: こっから北方まで歩くよ。子供はそこまでいかないよ。皆退学してるよ遠いから。あの時。だから子供でも学校行くの怖いもん。(道)間違ったらもう。1年生から4年生まで。

今の若者は同級は無くなったね。昔社会出るところもない金もない、毎月授業料出されないよ。

Q: 学校はお金払わないと行けなかったんですね

A: ええ、毎ヶ月払うよ。仕事する所もない。

Q: 周りの人で高砂義勇隊って行ってましたか?

A: もうおらないよ。皆死んでるよ。過ぎてる。ほとんど90なったよ。もうおらないよ。僕は作業所。兵隊もできない。もう年齢もあの年過ぎたからなれない。だから作業所。兵隊の手伝うだけ。

Q:色々話してくれてありがとうございます。

A: もうだいぶ忘れたよ。やっぱ忘れるね、話さないと。

Q: そうですか。でも今も話せてますよ。間違ってないですよ。中国語も喋れるんですか?

A: 。。。?

Q:原住民の言葉だけですか?

A: 喋らない。分からないよ。ただじっちゃんだけ。下の子らは皆分からないよ。何も分からないよ。日本人帰った時僕まだ若いから。今日本帰ってもう60、70年以上でしょ。

Q: ありがとうございます。

A:ここまで本当にすみません。

(王さんからブテンさんに)今年いくつ?

95。今(王さんのお父さんとは)2才の差、93。民国10年。いま民国13年。

(王さんから自分に)沒關係,他很多知道的。

Q: もう、聞いたので大丈夫です、、、

〜‘〜王さんとブテンさんの会話(サキザヤ語)〜〜

A: 軍属。手伝う人よ。兵隊ね手伝う。

Q: え、軍属だったんですか?

A: ええ。軍属

Q: 何年くらい行ったんですか?

A: 僕は花蓮港だった。これ(王さん)のお父さんは台北まで行った。同じ僕は作業所の兵隊。手伝う兵隊。

Q: どうして軍属になったんですか?

A: 自分の都合でしょ。

Q: 何年行ったんですか?

A: うち花蓮港だったよ。倉庫片付けて、品物沢山おるでしょ、なんとか皆守らないといけない、仕事しなきゃいけない、日本から来た食べ物にも、皆運搬する、それが手伝って、兵隊も足りないから、作業所の兵隊だけじゃ。本当の兵隊は違う。本当の兵隊は義勇隊だよ。義勇隊だけ。その時兵隊、本当の兵隊はまだ戦争行ってない、まだ訓練中よ。そして日本負けた。まだ戦争行ってないよ。

Q: 戦争終わるまで軍属だったんですか?

A: 終わるまで軍属だった。

Q: その後また帰ってきたんですか?

A: 花蓮港におった。、僕の仕事は花蓮港。これ(王さん)のお父さんの仕事は台北。

Q: 戦争が終わってからこっちに帰ってきたんですか

A: 僕は皆、作業所は皆仕事もないから、皆帰った。解散、皆解散。

Q: そのあとってなんの仕事したんですか

A: あとはもう自分の仕事しかないよ。生活も関係ない、自分で仕事する、百姓。仕事しないと食べるものもないよ、工場もない、仕事するところもない、自分の力で生活した。

Q: 何歳から何才まで花蓮港で働いてたんですか。

A: 僕は13才から仕事してるね。

Q: 13才?そんなに若く?

A: まだ子供よ。その時は映画館のところでガラスを吹いて、下駄を片付け、やるしかない。

Q: 何才まで仕事を?

A: その仕事は、何年しかない、もうやめて、大きくなって、また別の仕事。給料少ないでしょ。また変わらないといけない。ここやめてここへ来る、ここやめてここへ来る。

Q: 軍属のお給料も少なかったんですか?

A: ええ少ない。軍属は少ない。日本給料少ないよ。気持ちだけ。

Q: 日本が台湾からいなくなったじゃないですか、

A: 解散して帰らせたよ。中国が帰らせたよ。「あんた方、負けたからもう帰りなさい」って。今から出かける。もう誰もおらないもん。追い出されたよ。皆帰りなさいって。その時日本の友達も出会ったことあった。「わあ、僕ら日本に帰った時から僕は仕事するところもない、金ない」、友達も言うた。山に行って、日本に来て、台湾に来て、長いこともうおった人と、帰って土地もないでしょ。山のとこ行って家建てる。子供、海の近くで家建てて、帰った時ね、日本。日本山におって、山に帰った人は本当にきついって。何もない、野菜作って植えて、食べ物残りを街に送る、金持ってない。

Q: 大変だったんですね。

A: 日本のところ、皆きつい。同じよ。

Q: 今はもうキツくないですか?

A: 今だったらもう田んぼも沢山。今の子供は幸福よ。朝晩働かないといけない。

Q: いつから生活はキツくなくなったんですか

A: そうね。大東亜戦争なってから、その時は誰もあの時誰も働いてないからね。

Q: 昔って原住民は高砂族って呼ばれてましたか

A: 原住民?そう。一番入ってきたのは支那。入ってきて、何か分からないけど、ただ手紙出して、日本に手紙書いて、中国は帰った。そして、日本はここへ来て戦った。私のじっちゃんの時よ。そして日本がきて、台湾に。勝ったから。僕なんか台湾の人は負けたから。ほとんど戦争ね、台湾負けたから。(21:00~21:30聞き取れず)今の世界もまだ戦争あるでしょ。

Q: ちなみに日本のお名前はなんでしたか?

A: その時まだ変えてないよ。今同じ。今、孫福来。

Q: このお名前、いつからこのお名前になったんですか

A: これは中国が来た為にこうなった。ブテンタイワン。カタカナよ。ブテン・タイワン

Q:じゃあ日本語の名前なかったんですね

A: 日本語の名前はこれだったの。カタカナで。

Q: どっちのお名前の方が自分らしいと思いますか

A: ヘッヘッヘ。まあ自分を思い出して欲しいのは、自分の名前。中国きてから変わったの。日本時代は、これ、中国語は、これ。身分証明の名前。

Q: 何人兄弟でしたか

A: 5名。

Q: とお母さんお父さん入れて7人?

A: 僕のお母さんは男の子は3名、女の子は3名、一番末っ子。姉妹の子供、一番大きい子どもは僕もわからんね。いつから亡くなったかわからんね。皆おらないもん、兄弟一人は僕。兄弟もないよ。お母さんお父さんも亡くなった。

Q: もうすぐ100歳ですね。

A: ええ。90歳もう。

Q: 毎日ここに来るんですか?

A: 政府はおばあちゃんおじいさん元気ないから、保障させて。

Q: 昔ってどこ出身でしたか

A: 同じ花蓮港。サキザヤ。

Q: ありがとうございました。

A: ありがとうございました。

Q: また今度遊びに来ます。ぜひ、お元気で。

A: お体大事にしてくださいね。バイバイ、ハハハ。


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