Interview With Akino Sakichi

Akino Sakichi discusses his experiences in Taiwan under Japanese colonial rule and later the Kuomintang government, under which he served as a teacher and was wrongfully arrested as a suspected communist sympathizer.


2019年9月30日 (1時間27分36秒)

*不明瞭、聞き取れない部分は下線

台湾戦争で負けて半年で、中学卒業したの。日本は小学校6年まで。

よかったらお話し聞かせていただけませんか?

知ってることは話します。

ありがとうございます。佐吉さん、お誕生日っていつですか?

昭和7年、11月18日

佐吉さんのお母さんとお父さんも日本語でしたか?

4歳の時にお父さんが亡くなったんですよ。次男と三男が日本語の教育ね。

何人兄弟ですか?

自分は、日本時代はあの、宜蘭の農業学校卒業したの。三男は、日本の師範学校6年。

お父さんて昔仕事何してましたか?

農業でしょ。お母さんは、水田と野菜置いたり。お父さん小さい時亡くなったから。お母さんは、妹が17歳になるまで。そのあとは病気で亡くなった。昔山の人は六十何歳まで生きたら死ぬよ。長生きですよ。長男時代はもう四十何歳で亡くなったの。あの時は医学も発展していないから。

お家だと何語で話してましたか?

ほとんど原住民の、タイヤル族の言葉。

ではさ吉さんが日本語を話していたのは、小学校の時だけですか?

はい。小学校卒業して、それから、師範学校行って、中学2年間。それで卒業して、学校の先生になったの。

この辺の小学校ですか?

はい。台北から、新店くらいで帰ってきたの。61歳位に退職したの。退職して26年間くらいよもう。

その師範学校はどこですか?

台北。日本時代の第二師範大学。今は教育大学に名前が変ったの。

その師範大学は何語で勉強してたんですか?

師範学校は、当時初級は4年間。高級は3年間。それから清華学校が2年間。師範学校の教育は9年間だね。ずっとこの教育大学。

何語で勉強したんですか?

台湾のね、中国の言葉。6年卒業した後は、ずっと国語だね。中国の言葉。初めは苦労したでしょ。あとはもう慣れてきた。あんたは台湾でもう何年おったの?

昔は2年住んでました。

台湾語は、、、台湾語は本当に習おうと思ったら、やっぱり平地、平常の正確な言葉を習ったほうが早い。でしょ。

佐吉さん、学校で何教えてたんですか?

なんでも教えたでしょ。算数とか、国語とかね。

中国語で教えるんですか?

小学校の学生。はい。中国の言葉です。

平常使う言葉習ったら早い。起きたら「おはよう」と言うでしょ、日本語は。生活上の言葉、先に習ったほうが早い。あんたずっと台北におったの?平地の方でも、今はムーユージャオ(母語教:母国語教育)ね、教えてるよ、学校。台湾の言葉。関東語とか。山地の言葉。各学校に山地の子がおったら、皆教えるよ。

佐吉さん、タイヤル族のお名前もありますか?

バイヤス、アバオ

日本語のお名前だと何ですか?

秋野さ吉。日本が戦争に負けた時、ちょうど卒業したの。ちょうどこの上に学校があったの。

何学校ですか?

烏來国民学校

それは原住民の人だけでしたか?

あの時は日本人の学校もあった。日本もあるし、山地の学生、まだ平地人の学生、皆一緒ね。

それって何歳から何歳までの人が行ってましたか

9歳入学してね、6年間だからね。13歳くらいでしょ。

9歳までは何してましたか

その前は家におったの。学校小さいから。裏の学校。

沢山生徒いましたか?

戦争の時だからね、平地におった日本人の子供たちも、平地の学生も、ここに勉強したの。

疎開して来たんですか?

はい。ここで勉強して、短い。だいたい、一年位でしょ。後で、台北におったの。学校で勉強して、日本の学生ね、海兵隊が、ここに来て、これ(元々のさ吉さんの学校)が上に行ったの。1年間ここ。でその後はまた、(元の)学校に行ったの。裏に国民学校があって、兵隊が、怪我した日本の兵隊が向こうで治療したの。

平地にですか?

はい。向こうは平地人も山地人も、日本人も皆一緒。戦争負けて、負けたら日本が帰っちゃった。本当、日本人学校は下の方でしょ。戦争で、日本の兵隊が向こうで収容した、台北に残った。降伏したあと、兵隊は日本に帰って、学校は(元の場所に)降りてきた。以前は学校は今より小さい。

佐吉さんがご兄弟の中で一番年下でしたか?

学校だったら、私一番上。

周りで戦争に行った人いますか?

もう大勢行ったよ。裏の方もたくさん優秀な青年が。皆募集して、日本の兵隊になって行った。私の第二、第三の兄さんも兵隊行った。第二の兄さんは、海軍陸戦隊。第三の兄さんは、飛行機があったね、敵の飛行、船を、、、

特攻隊ですか

特攻隊ね。

特攻隊は優秀な人じゃないとなれないですよね。

そうよ。

お兄さん何人いたんですか?

二人兄さんおった。三番目の姉さんの夫ね。あれも日本の陸戦隊。あれは本当に初めに行って、アメリカの兵隊に交戦した経験があるよ。

佐吉さんのお兄さんで帰ってきた人はいますか?

二人とも帰ってきた。

その海軍に行った二番目のお兄さんも?

怪我で帰ってきた。陸戦隊のお兄さんも、あれも病気で帰ってきた。終戦後、一年後だね。

二人とも?

ええ。

沢山の人が帰って来られなかったって聞いたので、、

やっぱり戦死した者はおるですよ。日本時代の奥の部落は、戦死した。帰ってきた人が一人。もう一人は病気で亡くなったって。一人が死んだか、生きたか分からないものが一人。日本の先生が戦死したと。あの時の覚えがね。何名か戦死した人おるよ。

その戦死した人達って、志願して行ったんですか?それとも警察に推薦されて行ったんですか?

ほとんど自分の志願だね。志願で参加したよ。

お兄さんお二人共ですか?

一番大きい兄さんは、年は大きいよ。あれは一番と二番。

一番は農業、二番は日本時代の青年団長として、日本と一緒に連絡した、、、三番は農業学校、四番の兄さんは師範。

佐吉さん何番目ですか

私五番ね。

弟もいますか?

姉さん4名。大きい姉さんが農業。二番の姉さんが台湾大学の女子学校を卒業してやっぱり家で仕事。三番が衛生所、日本時代の助産師ね、家で仕事やってた。四番の姉さんが、あの、高校を卒業してね、商売したの。始め教員になって、後で商売したの。

じゃあ9人兄弟ですね。

私が九番目。

佐吉さんのお兄さんとお姉さんの写真とか日記ってないですか?

大学校の教授が持っていってもう持って来ないよ。お母さんの写真あるよ。

見てもいいですか?

構わないよ。

33:14

日本人の友達昔いましたか?

日本帰ってから、当時は居なかった。帰った後に、何名も手紙もらった。あの、解放した後、私日本行って、探しに行ったよ。住所、家も変わったね。向こうの警察の方に尋ねたらね、もう住所ないらしいね。始めは連絡してたよ。

大久保先生。大久保先生は、警察の部長、学校の校長。連絡先、先生も、年を、あの時もう4、50歳だからもう百何歳ね。日本の、日本でもう住所はあの先生の住所じゃないよ。一週間日本周って。東京ね。一週間おって、日本は何回も行ったよ。北海道も、行った。ほとんど東京ね。日本は良い所ね。日本は安心、あの時体がまだ若いからね。今はもう、歳が大きいから。行けないね。

日本が台湾から撤退する時、皆さんお別れですよね。寂しかったですか?どう思いましたか?

やっぱり、大久保先生が、初め私のお母さんに言ったんだよ。「あんた子供多いから、私を日本の子供みたいに日本連れて行く」って。お母さん許さないよ。

大久保先生がさ吉さんを連れて行こうとしたのですか

はい。大久保先生が、私に、いつも宿舎でね、隣だったの。いつも私家でほとんど毎晩、だから奥さんが子供ないでしょ。それで、私を日本に連れて行こうという計画したの。私はね、私もお母さんに言ったよ。「日本と台湾近いからね、いつでも日本来られる」って。あの時六年生だからね。お母さん泣いて。そして、「私日本帰ったあと、いつも来るから。」お母さんは日本人と非常に親しいね。あの時お母さん、もう六十何歳でしょ。

佐吉さんは日本に行きたくなかったんですか?

行かなかったの。でも、私8回も行ったよ日本。

一番最初に日本に行ったのはいつですか?

ちょうど私退職する前、一年に解放したの。今までは行かれないの。後で(会社と)討論して、構わない、それで代休申請して、日本行ったの。日本台湾から東京も近いよ。飛行機で三時間くらい。その後家内連れて行って。

大久保先生は東京出身なのですか。

はい。もし生きてたらもう百何歳よ。

当時何歳でしたか

60歳。大久保部長。皆この烏來ね、全部向こう責任がある。だから各村に2、3名日本人おって。あれが、以前の調査局長の向かいの橋のあれ。

日本の警察怖かったですか

日本の警察は人間少ないけど権力が大きい。非常にきちんとしているね。あの時僕は山地人は言葉は聞いてわかるからね、非常に密接だった。だから皆非常に互いに尊敬して。

原住民と日本人で?

うん。当時は烏來郷は皆殆ど、烏來に住んでいた人達外出られないの。出るってなったら先に申請するの。何時何分行って、何時何分帰ってくると。外の人でも、同じく申請。非

常に、あの時非常に治安が良かった。「原住民のあんた方、真面目に仕事しなさい。」日本の警察は大体、夜に起きて一軒一軒、「もう起きなさい」、「起きなさい、もう仕事しなさい」と。

警察がですか。一軒一軒?

一軒一軒周るの。怠けるものは精神の訓練する。精神の訓練が非常に自由がないよ。だから警察来たら時間通りに起きて、山に仕事に行くよ。

あの、人間ね、水田を作って、団体でね、団体で水田作って、団体で植える。水田はあんたのもの。野菜も、皆で。野菜とか水田とか、芋も日本人が教えたでしょ。陸上の米ね、陸上のお米と、粟は僕ら原住民の自分で置いていたの。水田は日本人が教えて、水田の方が、やはり水田の方が高くて、真面目に水田作ったの。

その、日本が撤退して、中国の国民党が台湾に来たじゃないですか。その時生活って変わりましたか?

大分変化したね。国民党の兵隊が日本の兵隊の牛とか馬とかあの、食料とかね、あれを没収する。あの兵隊が、さて言葉合わないよ。だからいつも喧嘩する。山地人と日本の兵隊、国民党の兵隊に、いつも喧嘩する。国民党が、入らない。道を通さないの。山地人が山へ帰ってきたら、「ん、どうしてこれは通れない?」兵隊と喧嘩するよ。何回もあった。

この烏來でですか?山地の人と、国民党の人が?

うん。「いつもどうして道通さないの、僕ら仕事行くんだ。」で、開けないの。で、喧嘩。部落の2人か3名か、青年が。3名の青年が殴られた。あの時の国民党の兵隊が、訓練していない。若くて鉄砲もなんだか、あの、日本の鉄砲は刃がこう(上に)立つでしょう。向こうの兵隊は、反対、ハハハ、青年も、「あの兵隊は訓練した兵隊じゃないね」で、殴っちゃった。

山地の人が?

で、あの時は山地の日本時代警察だった志賀さんという原住民の警察だった。あれ(日本人)が、(志賀さんを)部長に名乗り上げて、「あんたここ責任持ちなさい」と。それで、あれから山地の山地人も、部長来たらもう喧嘩しない。でも部長も国語言えないでしょ。話通じない。いつも鉛筆で書いてみせる。そうすると向こうも鉛筆で書いてみせる。

そうすると分かるんですか?

日本は漢字あるでしょ。だから見て分かるの。

面白いですね

それで後で約1年間治めたの。それで、あの部長が十何年間も部長になった。あれで烏來の治安が安定したの。でないといつも喧嘩。言葉は非常に重要。言葉通じないとね。国民党の国語は発音が怒ってるみたいでしょ。聞いたら日本の言葉は優しいでしょ。いつも喧嘩してるの。

後で原住民の警察が折らなくなって、国民党が、山地人の警察募集したの。「あんた警察なりなさい」と。何名か沢山の優秀な人間訓練した。1年間の訓練してから警察なった。

どこで訓練したんですか

台北で訓練したの。昔降伏した早々は、非常に治安が悪いよ。それで228事件になったでしょ。降伏後、あの時私台北市におった。向こうはほとんど外省人ね。台湾の人が外省人掴んで叩くの。

佐吉さんも見てたんですか?

私は行ってない。あの時小さいからね、大体15歳か16歳。僕ら学生が、第1期生の師範学校、年齢15歳から三十何歳までの人もおる。それで歳の大きい人が見に行ったの。私見に行ってなかった。

228事件て山地の人も参加した人いるんですか?

あんまおらんね。私烏來の方はね。いっぱい準備してたの。準備して行ってない。

じゃあほとんど平地の人?

うん。ああゆうこと228事件て、言葉合わないから。あれが原因。僕は国民党は、真理の問題だと解釈している。あの時国民政府も掴んだままどこ行ったかわからないから、民衆は皆怒る。228事件は短いよ。ほとんど平地人と国民党。

じゃあ山地で捕まった人はいないのですか?

いないね。烏來では。あの時平地人、平地に住んでいた山地の人はおらないね。僕らは知らない。

昔日本時代に高砂義勇隊だった人達って国民党の時代に何してましたか?

帰ってきてもほとんど病気よ。割と優秀な青年だから、衛生所、政府は6ヶ月訓練して衛生所の職員になった。

228事件の後は日本語話すのは禁止でしたか?

僕ら学校卒業した後、学校の方で「日本語とか山地後使ってないで、国語使いなさい」と。言葉は覚えがないね。

日本の警官ははっきりしてるね。今は学校多いけど、ほとんど日本時代は修身を強く教えてたでしょ。今は生活論理と言って、勉強しない。だから今は家でお母さんお父さん尊敬するような観念が薄くなってきたの。

修身の授業って毎日ありましたか。

もう毎朝。

大久保先生が教えるんですか。

大久保先生は仏教だから。自分の文化ね、先生は教えてた。修身は人間の成功するには一番重要だと。だから皆もう尊敬すると。今の子供もうだいぶ変わってきたという覚えが段々、段々と、尊敬することが国語(中国語)はもうないです

それは山地の人もですか?

今の若い人は大体皆だね。家庭にもよる。家庭教育も一番重要。お父さんお母さんも互いにね、自分の行動も注意して。

佐吉さんはどうして小学校の先生になったんですか。

学校の方で、9年間も訓練したんだから。学校教えると。先生なるものの行い、本人の行いも修身、人の関係も非常に重要だと。

日本語話すの久しぶりですか?

やっぱり日本語使うと親しみが。昔の想いが。だから日本何回も行ってる。おばさんとかね、年寄りのなんとか、商売してる所の日本ね、自然と気持ちがいいね。やっぱり想いがね。

佐吉さんのお兄さん、戦争に行ったお兄さんが帰ってきた後って、お二人は何してましたか。

二人は公所創った。第三兄さんが、あの、会社勤めの、農林管理所みたいな仕事行ってた。第二の兄さんが、後で議員とか、郷長になって、公所創ったの。

凄いですね。議員になったんですか。

今はもう山地の生活も段々良くなってきたでしょ。若い者もほとんど平地の仕事に行って。仕事があればいいよ。で、仕事しない家庭は堕落ね。

私の長男の子が一人が男、講師で。第二の女の子はイェンジョウスオ(研究所:大学院)、今もイェンジョウスオ、一方面シャンバン(上班:仕事)して仕事して、一方面イェンジョウスオ。今3年ね。あの法律。第三は、大学校二年生。長女の子は3人とも大学卒業した。女の子ね。大学卒業して、もう皆家の仕事。台北で大学卒業したよ。もう子供が3人。四番目の男ね、三男ね、3名(子供)おる。一人は長女が高等試験ね、合格して今はね事務所でシャンバンしてるよ。二人は商売。

佐吉さんが、大久保先生と一緒に日本に行かなかった理由ってなんですか?

お母さんが許さない。私あの時やはり日本行った方がいいと思った。自分でね。あの時子供だから反対できないでしょ。

そしたら、大久保さんとお別れする時って悲しかったですか

うん。非常に残念だと思った。始めいつも毎晩、夢みたいと思ってたよ。やっぱり思い出すといつも、日本の入学とかね、新生活。いつも、思う。だから日本行って、探しに行こうと思った。皆連絡取れないから、おるんかおらないのかもも分からない。

一人があの、日本の大将ね、大将の招待を受けられてね。僕ら日本行った。

大将?

僕らあの、靖国神社入って、拝んでった。あの、大将がね、もうあんたがたも、僕ら日本が台湾と仲良くなる時間があるから頑張りなさいって、入りなさいって、二週間ね、二週間もね、ずっと僕らと一緒に歩いてね、東京のあそこ、遊覧港に参加させてもらったの。

大将は日本人ですか?

日本人。一緒に大将の方から、まだ丈夫でおった。でも十何名も歓迎してもらってね。一番裏の方に十何名おった。僕一緒でも、寝るでも食べるでも、なんでも皆向こう招待して、二週間。やっぱり同じ年寄りね。年寄りとか、日本の兵隊行った者おったら、もっと親しいね。台湾の方はおらないもの。皆。向こう、大将は、武田、、武田さんもおります。

大将のお名前ですか?

武田は(義理)兄の日本名、大将の日本名。「どうして私も覚えてる?」「(日本を助けたのは武田さんだ。」あの人は、僕は、向こう大将の部下は、ほんと敵が殺される、日本も、どこに行ったか。が、(武田さんが)敵を殺して、日本人を助けた。

大将のお名前はなんですか?

武田。

下のお名前もわかりますか?

武田、、、なんて言うんだっけな、忘れたね。

何の大将ですか?海軍の大将ですか?

第3姉の、夫。第3姉さんの夫。

お姉さんは日本人と結婚したんですか?

はい。あの人は兵隊だった。敵は部下に殺される。敵を殺したという。あの名前がよく覚えてる、烏來の武田さんて。

烏來の武田さんが助けたんですか?

うん。「どうしてあなたは私の名前を覚えてるんですか?」「僕らの一番良い弟子。」大将も九十何才かな、今。靖国神社、大将帰ってきたら、皆僕の部下は皆敬礼した。日本の軍服着てて。やっぱり日本は偉いね。慰霊に保管してある。あの靖國神社の前になったら皆で皆軍服で。僕らほんと感心したの。

大将は烏來の人と一緒に戦争してたんですか?

はい。向こう烏來ね、烏來の方で慰霊碑があるでしょ。日本人が烏來で戦争に負けた人に感謝するために、日本の方募金してここに立ててる。今ある場所、4年前の暴風雨で半分崩れたでしょ。僕らその後半分が、まだセメントをね、やっぱりセメントをねまだ詰めて、やっぱり修復(?)には近づかない。

日本でも、戦争に行った人で沢山高砂義勇隊の人に感謝してる人は沢山います

沢山寄付したでしょう。僕らも向こうの会長になった、なった時は、毎年一回、私11月、日本人と一緒にお参りした。向こう(烏來義勇隊慰霊碑)で8年間行った。体もう年寄りでしょ。私体悪いから、人にあげたの。あんた、継続してやってくれって。もう日本人、3年間もくるよ、個人的な礼拝、団体的礼拝。私の時は毎年11月日本人の団体が来てお参り行った。

それって何年くらい前でしたか

8年前かな。毎年11月頃。

慰霊碑は、わたしの一番小さい姉さんが日本人おるでしょ、烏來の踊りの講師やって、日本人に接触して、日本人が、言ったの。「あんたら烏來郷に、日本時代の兵隊沢山おります。」私の兄さんも、兵隊行った。後で百何名の人(高砂族)が日本で兵隊に参加して、そして、僕らはね記念碑を探しています。僕ら、金を、資金がないからね、心配ね。それで私の姉さんがね、第三兄さんと第一兄さん、向こう(烏來)記念碑作るだったらもっと金かかる。それで姉さんが手紙出した。それで「(日本人:)僕らあんたがた場所が一定したら、僕ら募金する。」で場所が、探すって。連絡して、それでそれで民国6年、もう24年前ね、姉ね一定した、場所。金送ってきた。それで僕ら人探して、公認のね、造ったの。皆姉さんが一番初めに日本人にお願いしたの。


Tags & Keywords

Endnotes

None