Matsuyama Harumi discusses her experiences in Taiwan under the Kuomintang government, which she eventually worked for, even though the authorities once wrongfully arrested her father in her childhood.
ハルミ(松山ハルミ:李春梅)さんは1940年3月17日、台湾北部の桃園、角板山の山奥(現在の長興村奎輝部落)で四人兄弟の3女として生まれた。両親共にタイヤル族の家系であるが、家庭では皆日本語を使用していたため、ハルミさんは日本語教育を受けていないにも関わらず流暢な日本語を話す。母語のタイヤル語はあまり話せず、普段は部落でも中国語を使い、時折日本語を混ぜて会話をする。例えばハルミさんの会話は、「父母が日本語上手でしょ。家で喋ってるでしょ、小さい時から。我沒有讀啊,不會看字,大概會講啊,簡單的我都聞いて分かる(勉強してないよ、字は読めないけど大体話せる、簡単なことは聞いてわかる)」といった具合に切り替わる。タイヤル族の間では、幼い頃からハルミという日本名で呼ばれ親しまれている。
両親の記憶
ハルミさんの幼少期には父親に関する記憶が色濃く残っている。出身の角板山の話をすると、「角板山は沢山チャンビー(槍斃:銃殺)されたよ、みんな捕まったよ!」と話しだす。「お父さん10年間捕まったけど帰ってきたよ。本当に皆チャンビーされたんだから!」と訴えるものの、詳しい理由は「分からないの」と困った顔をする。実際にハルミさんはこの時期の記憶が曖昧となっているので、何度か再訪し少しずつ覚えていることを聞いていった。
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ハルミさんの父親(松山圭吾:李圭吾)は非常に秀才で日本語が堪能であり、日本統治時代は巡査官を務めていた。当時警察業務に携われる原住民は、各部落に若干名のみの選ばれたエリートのみであった。ハルミさん曰く、角板山には頭のいい優秀なタイヤル族が多かった。特に両親は「日本の精神」を持つ日本人そのものだったと何度も言い、ハルミさん自身、両親の「日本人らしさ」を今でも誇らしげに語る。
1945年、大陸から来た中国国民党が日本に代わり台湾統治を始めた。ハルミさんの父は中国語を話せなかったが、政権交代後も暫くは変わらず巡査官の仕事を続けていた。ハルミさんは国民学校(小学校)に通い中国語教育を受け始めるが、角板山では不可解な事が起こり始める。地元のタイヤル族が次々に国民党政府に捕まり、捕まった人は、そのままどこかへ連れて行かれると言うのだ。1950年、ハルミさんの父親も何らかの容疑で突然捕まってしまった。
「他比較跟日本人一樣。日本人教育吧,頭いいよ。だから被抓,あたま太好了,だから被抓了。でも沒有什麼!!11年位よ!」(父は日本人と同じよ。日本教育を受けたから頭がいい。だから捕まった。頭が良すぎたの。でも父は何もしていない!)と、何が起こっているかは分からないものの、頭の良い人は皆連れて行かれたとハルミさんは記憶している。実際に、ハルミさん家族が親しくしていた、タイヤル族医師のロシン・ワタン(渡井三郎・林瑞昌)や、その甥の林昭明も、その後皆次々に捕まっていった。
全く状況が掴めずハルミさんと家族は不安に駆られ、母は父が捕まって以来、心身共に弱ってしまった。そのため父が不在の間は角板山に住む叔父(父の弟家族)の家にお世話になることになったが、叔父の家にはまだ幼い子供が多く、ハルミさん家族五人が住み込むのは何かと負担となり、共同生活にも慣れることができなかった。暫くして、叔父の紹介で北京から来た外省人警察とハルミさんの姉の縁談が組まれ、結婚と同時にハルミさん一家は姉の旦那が務める烏來に引っ越すことになった。母は父の一件以来外省人や国民党を酷く嫌っていたため、姉の結婚には猛反対をした。しかし、母の体は弱っていくばかりで他に頼る当てもなく、仕方なく縁談を受け入れたという。
一方、ハルミさんの父親は捕まって以来、新店の安坑にある軍人監獄に収容されていた。平地の台湾人と二人で同室に入れられていたという。時々ハルミさんは母と下山し父の面会に行ったが、詳細は何も分からず母に付いて行くだけだった。結局、父が解放されて家族の元に戻って来たのは、捕まってから11年も経った後だった。父は帰って来た時には脚を痛めていて、片足を引き摺るようにして歩いていた。長期間ずっと小さな牢獄の中で過ごしたため、以前の様には歩けなくなってしまったという。かつてエリート巡査官であった父は、逮捕歴に加え中国語の壁や脚の障害も重なり、釈放後なかなか仕事を見つけることができなかった。暫くして烏來部落の友人サキチさんに紹介してもらい、烏來の国民学校で饅頭を作る仕事に就いた。サキチさんも、父と同じく過去に国民党に捕まり同じ刑務所に入っていた経験があり、二人は良い友人関係であったという。
父は数年その仕事を続けていたが、後に癌を患い他界した。男性では珍しいとされる乳癌だった。父が外で服を脱いで薪割り作業をする際、ハルミさんは父の胸元に日々大きく膨らんでいくしこりを見つけたという。手術で癌を摘出したが、手術の2年後に父は亡くなってしまった。父が他界して間もなくすると、ずっと心臓を弱めていた母も亡くなった。「心配ね、お母さんね、お父さんの事情、一直心配、痩せてるよ很瘦。(お父さんのことをずっと心配し痩せていた)」と、ハルミさんは両親のことを「可哀想よ」と何度も哀れむ。
80年代に入ると、台湾政府はこの時期に捕えた人々を「白色恐怖の受難者」として、公式的な謝罪と賠償金の支払を始めた。ハルミさんは父親の他界後、500万元(今の日本円で2千万円程)の賠償金を受け取った。元巡査官であったハルミさんの父親は、何の罪に問われ、11年の間どの様な経験をし、釈放後どの様な想いで働いていたのか。母親はどの程度状況を理解し、どの様な心境で烏來に移ったのか。周囲のタイヤル族は、ハルミさん一家に対してどの様な対応をしていたのか。当時ハルミさんは状況を把握するにはまだ若く、恐怖心もあるのかこの出来事に関する詳細は両親に特に聞かないままで、現在「白色恐怖」と言われてもよく分からないと言う。
山地文化巡回工作隊
両親の経験とは反対に、ハルミさんの記憶には国民党に関連した肯定的な一面も存在する。1955年、ハルミさんは郷公所(村役所)から「文化工作隊」に任命された。文化工作隊とは、原住民地域の各郷(全30郷)で1名ずつ選ばれた16-30歳の原住民少年少女が、台湾全土を周り演芸披露や地域交流などの活動をする青年団体である。表向きは困窮した原住民の生活向上を鼓舞する活動とされているが、実際は、山地への共産党思想の浸透を強く警戒した国民党政府による宣伝工作の一環であり、原住民青年を宣伝媒体として三民主義を地方にも普及させるという重大な政治的意図の下組織されていた。
ハルミさんは1954年に工作隊募集が始まって2年目の、角板山代表の2期隊として呼ばれた。推薦を受けてとても嬉しかったが、なぜ自分が選ばれたのかは分からないという。父が捕まった後の出来事であり、母はハルミさんを心配し反対した。しかしまだテレビの普及していない時代、ハルミさんにとって工作隊はアイドルの様な憧れの存在だった。「我是代表!他們選的,他們會看!一個縣一個而已!(私は代表よ!彼ら(役所)が見て選ぶの。一つの県に一人だけよ!)」とハルミさんは工作隊の思い出を誇らしげに語る。
工作隊に入ると同時に、国民党の黨證(入党証明書)を受け取った。特に申請や事前の手続きなどしてはいないが、工作隊に入った者全員に黨證が配られたと言う。ハルミさんは入隊時16歳になる年で、部隊の最年少だった。当時はまだ山地インフラが発展していなく交通も不便であり、船や電車に乗るのは長距離移動の時だけだった。山地間を移動する時は、重たい荷物を背負いながら、舗装されていない山道をひたすら歩かなければならなかった。小さい体では大きな荷物を運ぶことができず、しばしば同じ隊の青年に助けて貰いながら歩いた。移動は辛かったが、工作隊の経験は総じて楽しかった。数々の原住民地域を周り、その地域の村役場に招待され、歌や踊りを披露した。一件一件家庭を訪問し、現地の生活や文化など様々な話を聞いた。日中は歌や踊りの練習に加え、三民主義などの勉強もしたと言う。ほとんど中国語の歌だったが、中には原住民の歌もあった。
文化工作隊が終わり烏來に戻ると、次は林務局から「宣伝工作隊」に選ばれた。こちらも名目上は植林計画や森林保護などの宣伝活動とされていた様だが、活動内容は文化工作隊同様、各地を回って踊りや歌を披露するといったもので、約1年かけて台湾を周った。これらの工作隊経験は今では青春の良き思い出となっているようで、「懷念,懐かしいね」と微笑みながら語る。また、工作隊の活動を通して、ハルミさんは烏來に親友ができた。烏來部落に住む1つ年上のタイヤル族、ハルコさんだ。ハルミさんは角板山の2期代表、ハルコさんは烏來の1期、2期代表としてそれぞれ文化工作隊に選ばれ、2期目の活動を共にした。ハルミさん一家が烏來に移ってからは母同士も仲良くなり、その後も良く遊ぶ仲になった。
ハルコさんとハルミさんはどちらも語学力が高く歌も上手だが、この2人には他にも共通点がある。上述の通りハルミさんは巡査官の父を持つ日本語家庭で育ったが、ハルコさんも同様に日本語家庭で育っていて、日本時代は両親ともに烏來の青年団に入り、父はそこで団長を務めた後、高砂義勇隊に志願し戦死している。どちらも日本的な両親の元で育った、原住民指導者層の家系である。日本時代においては、この日本人らしさが所謂エリートの象徴であった為、日本人との距離も近く、部落での指導力や影響力もその分大きかった。工作隊に選ばれるには、おそらく容姿や能力における選抜条件もあったに違いないが、全郷で30枠の貴重な人選は、両親の経歴、部落内の地位や社会的立場との関係もあったのではないだろうか。
工作隊は地方部落での国民党の宣伝活動を意図されていたが、まず部落で代表的立場にある原住民青年を国民党に近づけ、三民主義、反共思想など中国式教育をすること自体、部落全体への影響力を期待できる。現にハルミさんとハルコさんは2人とも、中国語は同世代の平地台湾人と比べても非常に流暢で、また、若い時は国民党に尊敬と誇りを持ち、国民党を厚く支持していたと語る。(現在ハルミさんは政治からは一歩引いているが、ハルコさんに関しては現在も変わらず国民党に熱い想いを持つ。)2人は工作隊の経験を通して、両親の経歴や家庭の背景からは想像し難いほどに、国民党の理想とした模範的原住民へと変わった。また、ハルミさんにとって幼少期の国民党に関するトラウマ的な記憶は、自分自身が国民党に加わり代表として活躍したという青春の記憶へ塗り替えられていった。今日ハルミさんの国民党に関する記憶には、相容れない複雑な感情が共存している。
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