Interview With Yang Huohui

Yang Huohui discusses his experiences in Japanese-occupied Taiwan and under the postwar Kuomintang government, discussing how he overcame poverty and served in the military in the Battle of Kinmen in 1958.


幼少期 40年代

1935年、楊さんは烏來部落で4人兄弟の3男として生まれた。父から受け継いだタイヤル族のシラン・ユホンという名前に加え、日本統治時代につけられた日本名の富山信一、戦後に付けられた中国語名の楊火煇(ヤン フオフイ)という3つの名をもつ。6歳の時に母をマラリヤで亡くしてからは父親に育てられたが、父親は酒癖が悪く、良く殴られた。

1944年、9歳の年から烏來国民学校にて日本語教育を受け始める。当時日本統治下だった台湾は米軍の空襲範囲にあり、第二次世界大戦末期には空襲が頻発していた。台北近郊の烏來にもB-24・25が来襲し、通学をしても勉強どころではなかった。当時の様子をカタコトの日本語で語る。

楊さん「日本降伏なって僕はあんまり勉強してないでしょ。やがて丸一年勉強したら、空襲警報でもう勉強してない。そう、1年生で空襲警報鳴って、バコーン!なって、中逃げる。(中略)あの時一年勉強でもう、卒業してね。空襲警報、皆毎日、空襲警報。」

結局丸1年、殆ど授業を受けることのないまま終戦を迎えた。1945年、日本は敗戦と共に台湾から撤退していき、大陸から中国の国民党政府がやって来た。以後台湾では、新政権の幕開けと共に混沌とした日常が繰り広げられて行くが、楊さんの人生も大きく変わることとなる。一人で育ててくれていた父親が、肝臓の病気で他界してしまったのだ。その後、桃園方面に住む父親の妹夫婦の養子としてお世話になったが、夫婦からいじめられ殴られたため、一人で逃げて烏來部落に戻って来たという。当時まだ10代前半だった楊さんは、兄弟と離れ自身の生活を支えるために働くことになった。

楊さん「もう生活もない、人と一緒に仕事して飯食わした。身寄りもないよ、もうお父さんお母さん亡くなったでしょ。(中略)中国が台湾に来てからも学校には行ってないよ、その時もう家もないでしょう、あちこち、あちこち一週間一緒の仕事で、飯食わす、食べる、それでまた別のところ行って…やがて18歳になって、自分で仕事できる。」

両親を亡くしてからは、仕事と住居を転々とし生計を立てた。平地との経済格差に加え、終戦直後は職、物資、人材全てが欠乏していた。新政権下での情勢不安では誰かに頼ることもできなかった。烏來の教会に通い始めたのは、ちょうどこの時期からだった。明日の生活が保障できない楊さんにとって、教会は物資や居場所を与えてくれる心の拠り所だった。「毎日働いたよ、こうやって(土を)掘るんだよ。」と差し出された楊さんの手には、努力と苦労が現れている。厚く逞しい手からは痛々しい程爪が剥がれているが、もう痛みは無いそうだ。若い頃、道具無しに手袋もせず、毎日手作業で畑仕事を続けた結果だと言う。

青年期 50年代

この時期50年代台湾は、国民党主導の脱日本化に伴い中国社会へと急速な変容を遂げていた。ある日郷公所(役場)から手紙が届き、「楊火輝」という中国語名に変わったと告げられた。しかし中国語は話せない。自分の生活を支えることに精一杯であり、学校には通えないままだった。「お金がないからどうしようもない、勉強してないからね」という楊さんは、時間をかけて、実践の中で日常会話から中国語を習得した。現在はタイヤル語に加え日本語と中国語を話すことができるが、今でも日本語のひらがなと簡単な漢字を除き、中国語の読み書きはできないそうだ。

22歳になった1956年、国民党政府より楊さんに徴兵命令が下った。大陸の中国共産党との長期的交戦により困窮していた国民党軍は、台湾山地の先住民青年達を戦力として補充することにしたのだ。台湾の各地各部族から、合計1万2千名の先住民族青年が召集された。当時楊さんは状況も分からないまま、部落のタイヤル族の仲間と共に台中の大甲で軍事訓練を行うこととなった。

筆者「その時って中国語を話せましたか?」

楊さん「僕ら分からないよ。日本語、だから、日本語。以前は僕らその時まだ国語勉強してないでしょ。」

(中略)

楊さん「その時の班長(分隊長)、字かけないよ。あれ字かけない。戦う専門ね。」

筆者「どうやって話が通じたのですか?中国語?」

楊さん「いつもきついでしょ。通訳もない。大体、自然に分かるでしょ。ああ、きついよ。あの時全部大陸(外省人)が班長、若い者はないよ。タイヤル族の若いの、沢山ね。大陸のは、年寄りね、字書けないよ。」

筆者「班長?」

楊さん「そ、(彼らは)武器専門。」

筆者「中国の人と仲良くできたんですか?同じ班で。」

楊さん「…その時は台湾、大陸と一番敵でしょ。」

訓練の間、月々15円が支給された。毎月5円は装備の補充に当て、10円を貯金した。軍事訓練後、楊さんを含む原住民青年一同は、金門へ第一部隊として派遣された。どこに行くかは分からないままだった。金門は行政地区上、中国と台湾双方から福建省の一部として領有が主張されているが、現在は台湾側が実効支配をする中国大陸に面した島だ。当時、大陸で居場所を失った国民党にとって金門は絶対防衛すべき場所であり、唯一、大陸への物理的攻撃が可能な砦であった。1958年8月23日、中国人民解放軍の砲撃により金門で砲撃戦が始まる。この時楊さんは大砲部隊として前線に立っていた。

楊さん「雷わかる?もっと酷い、大きいよ。大砲もう、地震と同じよ!一つの大砲で、何人何百人も亡くなったよ。地震よ、もう。戦うの(開戦時)朝3時ね、で、もう夜よ。煙もすごい、地震も!」

筆者「ずっと?」

楊さん「もう地震よ。僕らは陸、大砲持つ。もう、ギャギャギャー!って。私の大砲、ここ(目の前を指差す)。打たれないよう、打って、隠れる。」

使用した大砲の大きさは12尺(約3.6メートル)と、一つの部落が吹き飛ぶほどの威力のあるもので、後々国際法で使用が禁止されたという。金門砲戦では、44日間でこの砲弾が47万4,910発も金門に打ち込まれた。計算上、1平方メートルに3100発が着弾したほどの熾烈な砲戦だった。激戦の末、国民党軍はこの金門を死守したが、その代償は大きかった。生還した者の多くも身体的・精神的に後遺症を負った。派遣された台湾先住民族青年も多くが命を落とし、楊さんの部隊にも受傷者・死者が出た。

結局、2年と聞かされていた徴兵期間は2年7ヶ月続き、前線で戦った楊さんはこの戦いで殆ど聴力を失った。間近での砲戦による爆音に、鼓膜が破れたのだという。左耳は完全に聞こえず、右は補聴器を着けても大声でなければ聞き取れないため、日常生活への支障は大きい。聴力のハンディキャップに加え、字の読み書きも習得していないため、楊さんは復員後も安定した仕事に就くことは出来なかった。

数多の損害を出しつつも、この砲戦では国民党軍が金門を死守した。そのため、毎年8月23日は台湾では823砲戦として記念されている。楊さん含む原住民の大砲部隊は国民党に功績を称えられ、戦後は一等兵から一気に3つ星の二級上将まで昇格した。総督府にも1週間招待され、蒋介石の激励を受けた。「烏來で一番の貧乏人」だった自分が、金門の前線で「台湾を守った」経験は、楊さんに自尊心と台湾兵としての誇りを与えた。また、蒋介石や国民党軍を偉大な神様のようにも思った。しかし、時間を経て国民党の汚職が剥き出しになると、蒋介石への崇拝の感情は一切無くなったという。部落の者の多くが国民党に入党していたが、楊さんは入党せず、政治から距離を置いた。

壮年期 80年代

部落に戻った楊さんは、畑仕事を再開していた。日々、自分一人の生活を賄うのがやっとであったが、教会の仲介により同じ部落のタイヤル人女性と結婚することになった。3人の子供にも恵まれるが、生活は変わらず貧しいままだった。烏來の水源地や肥沃な土地は、戦後全て商売上手な平地人に取られてしまった。そのせいか、平地人とは付き合いが上手く行かないと言う。そんな楊さんに、台湾の民主化と共に転機が訪れる。1987年、国民党政権下で38年続いた戒厳令が解除されると、日本人を始めとする多くの観光客が台湾に来るようになった。台北市内から近くアクセスの良い温泉街の烏來は、国内外で人気の観光地として知れ渡り、ビジネスマンや観光客で賑わった。

畑仕事の傍ら、生活を支えるために様々な仕事をし、ある日、簡易カメラで烏來に訪れる観光客の記念写真撮影をした。当時写真は貴重な商品であり、多くの人が現地での写真撮影を依頼した。楊さんはカメラに関して独自に学び、ネガフィルムを自分で焼き増しし販売した。旅行ブームもあいまって、この写真ビジネスは従業員を雇うまでに拡大した。当時のことを「沢山儲かったよ。」と笑って自慢そうに話す。家族を養うため、朝は畑、日中は商売、と休みなく働いた。1998年になると退役軍人制度が変わり、それまで「栄民」(主に抗日時代から国共内戦を戦って来た大陸の国民党兵)しかされることのなかった戦後補償を台湾老兵も受給できるようになり、政府から毎月14500元(58000日本円)を貰えることとなった。ようやく安泰した生活を手に入れた。

楊さんは働き者だ。今年84歳になるが、午前は教会へ通い、午後は山へ登り一人で養鶏、農業、土木作業を行う。本人は「烏來で一番の貧乏だった」と回顧するように、幼い頃より困難な境遇に遭ってきたが、持ち前の明るい性格で乗り越えてきた。怒りや悲しみの感情をあまり出さず、他者への愚痴もこぼさない。教会の仲間や部落の親しい隣人でも、楊さんの金門での戦歴や、耳が不自由な理由を知る人は少ない。今日も自分に命がある事を神に感謝し、何度も「神様守ってるよ」と笑顔で語る。


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