Interview With Lee Ok Ja

Lee Ok Ja (pseudonym) discusses how she was separated from her family when they returned to North Korea, and how she continues supporting them from Japan.

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Lee Ok Ja was born the second of eight siblings in 1941. Her parents migrated to Japan from Jeju Island. Her father was an activist for the Chongryon, and did not work, leading their family to face financial hardship. Although she was bullied in childhood because of the scars on her face, she was a strong-minded child who even competed with boys. She took care of her younger siblings instead of her older sister, who was deeply engaged in dancing at a Chōsen gakkō (Korean school) high school.  

    Lee learnt to sew from her mother. Ever since she could remember, she had been telling her mother that they should run away from home. She believed that if she and her mother both had jobs, they could manage to make ends meet for her younger brothers". They began to talk about the so-called Repatriation Project to North Korea at this time. Her parents wanted to return to their hometown, Jeju Island. They believed that in three years, they would be able to travel between the two countries and that the Korean Peninsula would be unified. At that time Lee often read Goro Terao's books with great enthusiasm, and the decision to return to North Korea was a natural one for her family.

    In 1961, her siblings and mother left for North Korea first. Since her father was the regional vice chairman of Chongryon, he had to stay in Japan, and she remained behind as his caretaker. She too, began making plans to return to North Korea. Nevertheless, the letters she received from her mother and siblings were not optimistic. Moreover, the more she observed Chongryon's activities, she started to feel that she could not agree with their missions.  

    Five years later, her father returned to North Korea as a Chongryon delegate. By then, she had no intention of returning to North Korea, but took her father to Niigata Port. Her family had all returned to North Korea, but she tried not to dwell on it. Remaining in Japan alone, she became the only person who could provide for her family. As a result, she naturally began to participate in the activities of Chongryon. While working as a desk clerk for Chongryon, she took an additional job day and night as a tailor to support her family in North Korea and her children. She kept sending packages to North Korea for 60 years since she was 19. Even trivial things such as plastic bags and rubbers were packed into those packages. At first, she tried to send them separately to her siblings, but the shipping cost was too much. Later, she switched to sending them all to her parents' house, which she continues to this day.

  • F: Interviewer

  • L: 이옥자 Lee Ok Ja 李玉子

F: ご主人亡くなられたのはいつの時なんですか?

L: 亡くなったのは1985年か。

F: そうですか。早くに亡くなられたんですね。

L: 私の父親が向こうで(亡くなったのが)85年やから84年か。 (総連の)仕事ももう、商工会で来てくれ、事務だけしてくれって。昔手伝いで家の帳簿付けの仕事やってたから。それをちょっとの間行ってたけど、きるだけ出したれって言うてくれて。そんなん10万やそこらやなくてなににできます。で、縫製の仕事したわけ。勤めてじゃあ、子供育てられない。いじめられて何されてもほんまにもう、あ、わかった。学校やめよ。もうええって。決断のもとに。 (Oの子供達は)向こうの道に行く、みんなと同じ道(朝鮮学校の友人と同じように組織の活動家)あるかへんって。その時代は普通じゃなかった。

F: 思想教育以外は価値のないものってことですか。

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L: いつごろかな、あの子が結婚したころかな。ちょっとそんな話があって、「どんだけ(当時)オモニ怖かったか」って話してくれた。いつ私に何が起きてもおかしくない状態やったから。それでもやっぱり勉強したい子だったから、大阪の会社勤めながら、あの(朝鮮学校)卒業資格ないでしょ。

F: 高校を退学されたんですか?

L: うん。うちの子は、当時は朝鮮高校を卒業して、日本看護学校でも行けたの。でもだめだった。下みんな(弟妹が)ちっちゃいでしょ。それで家を助けながら働いて。どういうルートで自分で勉強したかしらんけど、よくこの学校で勉強したなって思う。

F: それは優秀ですね。

L: だからそれも26ですよ。だからものすごく(海外留学に)いきたかったんやって。(私は)ごめんごめん言うしかなかった。で、ちょうどあの子の誕生日の間近だったから。 一回目はね、(娘が)19の時。私パスポートから全部隠してもうたの。わたし19で(家族と帰国事業で)別れてるから。親姉弟と。高校卒業した時に別れてる。で、主人も19で大村収容所で親と別れてるんやね。それで19の歳の別れってあかんねん。(子供に)ごめんごめんって。

F: 19のときには行かん方がいいって思ったってこと?

L: 19で別れたら一生離れるんじゃないかな、という。

F: そんな風に感じたんですね。ご自身がそうだったから。

L: うん。怖さがあったから。うち主人の方の軍事令、病気で倒れた時にこれが韓国人の怖いとこといらんとこ。お前が甥っ子の嫁として日本で一番近いから、看病しに来い、言うねん。誰が働いて食べてんですか。子供がそういうことみんな見てるから、もういい、もういいって。 ちょうどわたしが75になったときか、족보作り直すからって、家系図。それで●●(夫の큰집)に行って。電話でしゃべってたってアカンわ、わたし耳もこうだし。(※Oは耳が不自由)ほんだら一回行きますって、そしたらびっくりしてんの。えーって。

F: え。なぜ。

L: 済州島にね、ほんまに、(縁を)切るつもりやったから。全部書いて、主人の家に20枚くらい書いたと思うわ。結婚してからのやつね。で、いろんな、そういう事情(経済的に裕福ではない事情)全部書いた。それでも子供には自分の父親やから、私の口からは父親の悪口は言わない。うん、言いたいよ?でも、いろんな形で囃し立てられようが何されようが結婚したんや子供には罪はないもん。で、親の悪口聞いて気持ち良い子ってだれがいるん。そうでしょ。私もS(息子)も、삼촌とかハルモニハラボジがそれ以上の人だから。うん、いじめを受けてきたから、せめて子供には自分の口から悪口は言わんとこって。

F: ついつい言いたくなるもんね。

L: でもね、娘は言わんでもわかってるよって。わかってるこの子はものすごいあれやから、でも中の一人はアボジ呼んでた本(思想的な本)、あんたそれどこにあったのってきいたら、いや、俺買うたんやって。

F: 同じものを。

L: 同じ同じ。やっぱり興味持ってんのね。だからいらんこと言わんでよかったなぁって。

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F: すごく苦労されましたね。

L: うん、だからね。(北朝鮮に)帰るって手紙書いたことあるんですよ、親に。どんな苦労してでも行ってオモニと行って暮らしたい。でも「来るな。」 わかってるのよ、わかってるんだけど、わかってなかったら送らない。

F: お母さまも絶対会いたいでしょうね。

L: 会いたいというより、もうとにかく助けない。向こうが行かさない。今もこれ冬から春になってるね。荷物売るときは冬の服からなにからもうないのよ。全部荷物に変わって全部おくる。んで、私の知り合いいうんかわかってる人には言うて、日本の方でもちゃんと箱に入れるくらいの量と箱代っていって、これで一万円。いれて持ってきていく人もいるし。だからこれ60年から送れた。19で別れたんだから。その間一回しか会ってないの。

F: 家族が帰国した後、1度(北朝鮮を)訪問されたんですよね。

L: うん。一回行ったら二度と行かへんわって思ったから。 だから他の人のお話しするんですけど、そんなわたし言い方ようせんかったって、ものすごい苦労してる方なんですよね。

F: 日本人の人です?

L: 日本人で帰国してる。またおまけに脱北して日本に住みたいから姉ちゃんどないかせぇって言うてんねん。

F: その方は?

L: 韓国に来てるみたい。

F: 韓国に。

L: そこ繋がったら私の知り合いとつながってんのよ。だからこっちがZ県(Oの居住地)から帰った子が手紙来るんにどうも似てんのよね。ある日その人に向かって手紙託けてっていうのがきたから、ほんでその方は私が取りに行きますってこんな遠いとこまでこんでいいです、取りに行きますからってZまで来られた過去があるから。それからほんまに親しいっていうか相手の方が腹の底から喋れる人が見つかったって、今までみんな上っ面で通じひん、通じひんって、知りませんよ、んなもん。 だからね、帰国(事業)の最後の方で孤児院に入ってる子とか、孤児になった子とか、入れなくとも最後は全部そういう子集めて帰国させていったから。私Zに引っ張ってきたい、もう北はめちゃくちゃってわかってるもん。私は自分も食べていかれへんけど、ほっとかれへん。 知り合いが亡くなるちょっと前くらいかな、私が50まで生きられるかどないかっていう感じで動いてて仕事やってて、納期だけは絶対守るから、ごめん助けてね、いつでも動かれへんねんって。日本の方よ。飛んできて代わりにしてくれたり。やってきたことあるんだけども、だからその仕事の、ほんとに今でもいう、あの人がいなかったらオモニたち生きてられなかったやろなぁって。日本の方。

F: どんな風に出会った日本の方ですか。

L: 縫製。

F: お仕事?

L: 縫製で行って。 そこでまた内職もらって、バイクで積んで帰って朝それを残業で持っていくの。そういう仕事でもくれるとこ、どないか探していかないとだめだからって。 親に会って帰って行くときに、あの当時の県の委員長、O市からZに来た。わしがついていくからわしの費用みんな出してくれって言うて、お金もらっといて、新潟まで知らんぷりしてついてくるんよ。でも○○が行くから、わしいかんでもできるやろってから(帰国しなかった)。わかる?これが委員長ですよ。いくら小さくても大きくても関係ない。その県の長ですよ。ほで、帰ってきて噂みんな入ってくんねん。行かんとな、新潟でな、カニやらなにやらおいしいのいっぱい食べてきた言うて、話は出てる。もう話飛んだりこうなったりしますけど、あの不信感。

**

L: (帰国した)妹が一人だけ肩書持ってんの。労働党の肩書をね。でもどうかな、日本で書けるだけのことを書くわけですよ、私は。組織がこうだって言わずに組織のあった場所、住所を書いて、ここにいてる人たちがこんな状態やでっていう。あいつらにどんなことやられてきたかって全部書くわけよ私。だからあの当時はもう最初一月二月下手したら半年くらい回ってようやく手紙が着いたっていう最初はそんなときだったから。 それでもね、どうにかな、兄弟がこっちにいてる時から母親が末っ子産んだ後退職して寝たきりになってたから。自然とこう、どういうの。動き方が違ってくんのよね。だから、山に焚火、山の奥はいったらだめなのよあの当時、国立で、芝かってもだめなの。それが近所のハルモニたちと一緒に、さつまいもを掘りに行くなり、一山超えて。

F: 苦労されましたね。

L: 苦労って、わたしが動かな食べていけへんって。苦労とか先やねん。

F: それが「暮らし」なんですね。

L: うん。だからなんで、帰国前でみんな騙された騙されて帰ったって言う風に日本の方よく言うの聞かない?

F: 言いますね

L: 聞くでしょ、全員が騙されていったん違うよって。まず世界情勢があるでしょって。ほな日本だって帰国始まるその前の年からすごい数の移民を送ってるじゃない。あくまで

F: ブラジルまでね

L: うん。そういうの考えてみって。うちだってシオモニ、シオボジとか、あくまで貧乏じゃなかったら、帰ってない。私もオモニに、私中学出た時、オモニも行こう、(家を)出ようって、ここ出ようって。二人働いたらどないか兄弟育てたらいけるから、出ていこうよ、そういう話やってるときに帰国問題が出てるから。やっぱり国に帰りたいっていうのが一世はすごいでしょ。済州島やなくても、もうあの時はもうなにも明るく見えてたから、それがすべて朝鮮の社会でもそういう風につながっていくと思うじゃないですか。だから私泣いてないまま見送り。

F: すぐ会えると思いますもんね。

L: 鬼だって言われた。会えるもんって。 私の上に姉がおっても、生活の苦しい中の姉っていないの。特別みたい。姉の場合は朝鮮高校もまっすぐ行った。日本の中学行っててもクラブを5つも入って帰ってくる。わたしは行って昼帰ってきて食べてまた学校行って弟らの世話をした。もうあかんわ、オモニが帰らへんなら私が帰るっていうな感じ、半分は思ってたな。ほなある時、(姉が朝鮮に)帰るわって。先越された。だから(O自身は)残る形になったの。で、アボジがその当時부위원장やってたから、あの当時家族ぐるみだと帰してくれなかったの。

F: え、なぜですか。

L: だから5年後に帰ってんのアボジはね。

F: オモニより先にアボジが帰らず?

L: そうそう。オモニが先に私の下全部連れて帰ったわけ。

F: お姉さんが一番初めに帰って、次にオモニと

L: 姉、妹弟全部が帰って、5年後に父親が帰ってって感じ。それもね、ただ帰ったじゃなくって代表団の形で粛清できたの。片道切符で帰らせてんの、全部。

F: それで家族ぐるみでは帰られへんと。

L: でね、家族帰らせてない人ほど偉そうにしてる。日本で。ほんまの痛み知らないもんだから。

F: で、その次アボジ帰って、オモニアボジから帰ってくるなって手紙が?

L: オモニが帰ってくるなって。でもね、もうたまらんからって思って一回手紙書いて、オモニが帰ってからのことずーっと手紙に書いたの。(母は)もうすごかったみたい。泣いて泣いて、オモニはお前をそんな目に合わせるために嫁に行かせたんじゃないって。お前は私の娘やって。なんで삼촌からそんな目に合わなあかんねんって。なんでわしが負うてきた目をお前が負うねんって。(夫の家族と)縁切りたいっていうて手紙書いたんですよ。

F: 嫁として、母として。家族はみんな、みなさん、帰られて。

L: だからね。ちょっと他の人と違ってるのもそうだと思う。私子供育てながらでも(民族学校に通わせながらも)「学研の科学」は取ったんですよね。勉強させたいから。もう(民族学校は)アカンのわかってるもん。

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L: 送ってほしい、ほしいよね。(妹が他帰国者の)手助けしたらその分向こうでもらってるみたい。それが全員じゃないよ。逆に言えば在日の手助けしたったらダメ。最近韓国の人、월남 가족,南から北に戦争の時に行った人たち。その人らでも日本からの帰国者じゃないとこれは送れないの。だから妹を通じてこう。それで妹の子が乳がんなった入院費、手術費台をちょっと送ったけども、続かないもん。その人に助けられてここまで(送ったものが)来てるよって、手紙も来てたから。ところが、この状態(コロナ)で去年に送った20万が、着いたか着いてへんかで、わかんないわけですわ。

F: それで途絶えてるんですか、去年の

L: あのね、向こう(北朝鮮)の人間にとられるのは極力減らしたいから、こっちから電報送るの。いついつ送ったって。ところがこの3年、今年は除いて、特に2、3年前ってものすごい日本でも厳しかったし、向こうで国際電話切っちゃうんですって。だから今受け付けても向こうで切られてしまうことが多いですよっていうのがもう続いたのよね。そしたら国際電話の方が、あ、今やったら繋がりますって。すぐ流してくださいって言うてくださるようになって。そしたらわかりましたーって。そういう形で送るから一応全部(送った荷物は)着いてる。ただね、一回だけ(荷物を受け取りに行った妹が)首絞められて、お金取られた、10万。平壌駅でカメラに全部(写っている)。送ってるって、女やってわかってるのに、逮捕してないってわかるでしょ。こっちで弁償やねん。あの、他人さんのやつを委託しているからそのお金をこっちで、もう。二度と受け付けるなって言って。最初からこうだっていうことわかって、その国に送れって。で、韓国の人がいつどうなるかわかりませんよって。送ってもどうなるかわからへんし、それでいいですって送りはったから、だから去年の1月に送ったやつ未だに連絡ない。こっちが5回目。こっちが6回目の手紙。戻ってきてる。これは日本で戻ってんの。戻ってきた日にちです、それは。

**

L: (写真を見ながら)これは母親ね。これが妹、これはわかんないですよ。この人たちはわかんない。身内かもわからないですよ。向こうでみんな結婚してるから。母方の弟になる家族もみんな行ってるから、そっちのは全然わからん。自分の周りしかわかんない。 この方は向こう(北朝鮮)の人。向こうの人とみんな結婚してんのよ。あの平壌で、妹もそこで(学校を卒業した)。それで、清津のほうに派遣されて、裏では麻薬。だってくれたもん。持って帰りって。ちょっと待ってって。「これ姉ちゃん持って帰り」ってこうなんねん。なんで?って言うと「みんな持って帰ってるよ」って。それが私の妹やねん。 (姉の娘は)綺麗なかわいい子でした。実際おうても。ものすごい喧嘩したけどものすごい気遣ってくれる人。だから自分が親族でもないのに会ってくれる。だから、清津行ったときでも、風呂場みたいな水桶なってたんやね。断水ばっかりだから。で、やー。いいの作ったなーってトイレもこんな綺麗なんて。この人が来てくれたから、直してくれた。その後ちゃんとせえへんだら痛い目にあうっちゅうこと。

F: そうか。それだけやってあげてるから。

L: そうそう、で、私と一緒に行った子が丁度ね、평양で大洪水に、ほんまに日本でも見たことないような雨が降ったのね。で雨がやみかけた時私は청진の方行って、この人は自分のお姉さんの方行って。そしたら向こうの柱が切れてて流されてたみたい。だからそれを、村の人が出てきて、車通れるようにしたみたい。ほならそれを帰ってきてそれをいうわけね、평양から帰ってきたときに。日本に帰ったとたん「お金送って、荷物送って」って。それで電話かかってきてまたかかってくるよってちょっときて、わからへんからって。飛んで行ったんですけどね。

あんた言うたやろって。向こうはしてくれるには無償じゃないんだって。あとでちゃんとせなあかんって言うたやろって。だからあんたが持って行った荷物、いくらお金置いてきたか知らんけど、それが全部そこ(家族ではなく中央へ)いってんのわからへんのかって。あのね、旦那が상공회のあれで行ってるから集められまくってんねん。원산から평양へ行く途中の休憩所でも。あんた何やってんの、まだ何か買え言われてんのか。さっき言うた人と違う人やもん。アカンかったらアカンいうたらええやろって。私が向こう行ったとたき원산と向こう大喧嘩したから。つけられてんで、監視されてるでって。じっとしとれ、動くなって。一緒にいた人に言われたもん。

だってね、(O自身は北朝鮮の家族が)誰一人迎えに来なかった。家族がこんなにおってんのに誰一人向かいに来ないなんて、なにかがあったんだって思わない?ほんでばーっと走ってきて自分の親いてるのに、私のとこ走ってきて、あんたのとこのお姉ちゃん、なんかあったんかって。なんでみんな来てないねんって。姉だけQ区にいってんの。

F: Q区には(帰国者は)いないってことになってるんです?

L: なってる。

F: それは、私は知りませんでした。

L: (姉は)痛い目におうてるし母親も向こうで大喧嘩したみたい。これも恋愛結婚やったり、向こうの人と。 姉の背骨、あのぽこんと出たとこ。全部黒くなってた。それが風呂一緒に入ったから。もう行ったら温泉連れて行くっていう頭があったから、なんぼ払ってもええからって。オモニと私と3つの子、4人だけが別居で他のは一緒に入れへんの。ちいちゃなこのくらいのお風呂だったけど背中流しながら、声でえへん声でぐわって(涙が)出るから。オモニが「ここきて、姉ちゃんどんな苦労したかわかるやろ」って。(このことについて)もう今は素知らぬ顔でしゃべれるけど(北朝鮮の訪問から)帰ってきて1年ほどはダメ、喋れなかった。自分で見てきてるから。見てなかったらね、話聞くだけやったら、そんな実感としてわかなかったと思うねんけど、向こうは結婚するにしても党が承認しないとだめだから。だから、党に行って母親が大喧嘩したらしいの。もう普通じゃない。

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L: 母親亡くなったときに数字忘れたけど250か300か人が来たっていって、そんなにくるの。くるくる。でも、こんなときやないと食べれんもんって言われたからなるほどなって。丁度ね、亡くなる直前(Oが日本から送った)お金と手紙が着いて、それを母親、안고 갔다みたい。それで自分は納得してるから。することできたってよろこんでくれたらいいわって。苦しさばっかりじゃなくって。

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L: 姉はこっちで看護婦やってた。だからほんまにきょうだいかっていわれた。わたしは目が細いしなにするし気が小さいし、姉は背丈があるし色白で目が大きいですよ。ほんまにきょうだいかって。絶対違うってよういわれた。

L: (写真を見ながら)これみんな私のさっきのふとん、これみんな日本で作り直してまた打ち直して全部送ってる。ないもん、ふとん。

F: ふとんも無いんですね。清津市Oさんの母の住まい。 1984年頃。後ろのふとんは全てOが送ったもの。

L: 私行く時だから姪っ子たち、布団結婚できるやつ1セット2セット、男と女でね、みんな持って行ったもん。その間本部と大喧嘩やったで。お前肩書取って行けって。どの暮らししてるかわかるやないか肩書もっていくなって。もう荷物一つ送るのも喧嘩よ。ぎりぎりで繋げたら荷物送らなあかんから。何よりもくらいのそれ。

F: 家族の絆ですね。

L: チマチョゴリもみんな送って、布団も全部セットで送って。全員にこうして送ってんで、私自分で作って送ったチョゴリもいっぱいあるわ。あとは食料に変わろうがなにしようがそっちに使えるもん。だってチョゴリの作り方教えてくれいうて来たもん。

F: オモニもつくりはる?

L: 作ってた。旦那の親戚筋が大阪でみんなチョゴリ作ってはったから姉が大きいときに行って、なにもできひんから教えてもらって。いっぱい行ってる、来てるみんな。

F: これもじゃあ仕立てたんです?

L: これもう、鶴橋で仕立てた奴や。だから中のしゅっちゅうこんなん送ってんねんで。でも着てないねん。

F: 着ないんですかね、やっぱりこっちのは。

L: あのね、普段はどういうんかな。なんかの大会とかなんかで踊ったりするときは別だろうけども、こういうの普通の人着ないと思う。全部セットにして送ってるよ、一応。もうそれは約束だからってあの子ら帰ってきて送ったから。持ってはいけなかったから。

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L: 本当に苦しいのは吐き出せない。震災の人なんか聞いてたらみなわかるんですよね。またまた3月12日は、困るのは父親の命日。そして외할머니の命日。うちみんなそうなの。重なってるんですよ。主人は、長崎の原爆。母親だけはクリスマスのあくる日、だからまだましっていうか、自分もちゃんとしたおくりものやれたから、わたしの手紙とお金を胸にして亡くなったっていう。それでも手帳に残したら(母の葬式には)250人招待せんでも来るんですよ、わたし聞いたんですよ。 地域地域のこともね。とくに해주ってとこもあるわけですよ。해주にも親戚筋とかいってるんですけどっていったら、在日じゃないでしょっていわれたんですよ。韓国から密航してこっちに来て日本で見つかって韓国帰るか北へ帰るかっていうのがあって北へ帰らせはったんですよ。そういう人ら해주、国境の近くやって、在日とかそういうとこで前戦防衛みたいに配置されてるよ。誰が教えてくれますそういうの。それでわたしの友達が生きてた頃だからわたしも若かったし、会いにいこってソウルへ会いに行ったでしょ。

F: 何歳くらいのとこですか?ソウルに行ったのは。

L: いつやろ?あのころは…

F: 息子さんの歳とかでもいいですよ。覚えてたら。

L: まぁそれはまたあとでね。

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L: あの方(韓国にくらす帰国者)また日本に来られたんですよ。日本のテレビでもよく出てはった。行くとこ行くとこで朝鮮総連に対する批判?バンバンやっていかれたんですよね。ところがそれを受け止めてはるっていうのが日本の人もわかってない。全然ですよね。で、在日自体がわかってないねんっていうのんと、わかっててもしらんぷり。っていうのね、わたしがこういうの前言ったように、日本の学校出て、父親が丁稚奉公で日本人の中で育って考え方が固まってきたわけでしょ。そういう影響受けてるから(Oは)考えが違うんですよ。うん、なんていうんかな、なーんか違うんよね。だから脱北者の市民団体とか、どこ行っても騙されて帰ったって言うけど、(Oは)違うっていうのよ。あの、そりゃね、国同士の取り決めがどういう風にやったんかとかは一般市民にはわかんないっていう。そうでしょ。日本人だって、そしたら移民さすときに相手を、なにか受け入れる、すべてをわかって送ったんかって、送ってないじゃない、どんだけ苦労してるのよ。ほんだら一緒ってよう見て考えましょう。世界情勢どうでしたっていうんですよ。まだまだ社会主義が優勢なときだったでしょって。特にうちの母親はとにかく帰りたい一心がすごくあって。それがね、良い시집に嫁に行ってちょっとでもあったかい人たちがいてたら帰ってない。 ていうのを私が中学なったときに小学校卒業して「オモニ、この家出て行こ?中学出たら働けるから、オモニと二人働いたら育てていけるから出て行こや」って私いらんこと言ってきたからかも。母親見てられなかったもん。

F: 中学生のオモニが見ててもつらい状況やったんですね。

L: あの、母親死ね、いうたら死にました。

F: あらま….

L: あまりにもむごすぎて。(Oは)할머니に抱かれた記憶ないし、선생님に抱かれてる記憶もない。

**

L: この写真ね、還暦の写真なんですね私の。そしたらこれ送ったら羨ましいって来たから、

F: 誰に送ったんですか

L: 兄弟たちに。姉は全然離れて住んでるから。そこも送ったら羨ましいって来たから、カァーっときた。わたしが。おかしいでしょ。

F: 気持ちは、でも、一人きりで日本で苦労してるのに

L: だからね。書いたんですよ。姉ちゃんはね、夫婦そろって元気な時に子供4人結婚さしたでしょって。一人で生きてきて病気の主人診て、子供4人育てて生きてきた私がどういう生きたかたしたか姉ちゃんは知らない、って書いた。あれから一切来ないよ。

F: 手紙?

L: 一切こなくなった。あのね、わたしの小さいときからの姉っていうのはあんまり存在しないねん。なんで私の後ろに、カルガモみたいにずらーっと、風呂行ったらみんなずらーっとつれてきますもん。

F: 弟妹?

L: 家にお風呂ないでしょ。おいでおいで、洗ってあげようって。近所の知り合いの人たちがみんなそうしてくれはってたから、あんたみんな連れてきてんねんなって感じで、姉がいないの。

F: お姉さんは学校や仕事で出てたんですね。

L: だからね、わたしは母親の見すぎて、母親のためなら死んでもええわっていう気持ちでずーっと生きてきたから、定時制行ってきたときでも10時頃帰ってくるんですよ、家にね。歩いて行って歩いて帰ってくるもん。

F: 夜学校行ってたんですよね。

L: そうよ。だからバス代が高いでしょ。その当時の自分の生活から見るともったいないんですよ。そしたら本当にね、駅まで行ったその前くらいかな、歩いて40~50分くらいかかるかな。

F: バス代浮かせようと思って?

L: そりゃそうですよもったいない。だからね、時代背景が違うし、あの当時のほんまに定時制来てた人たちっていうのは学校で寝ても怒らないもん。ギリギリになって入り込んでくるっていうのがみんなそうだから。資格取りたいから来るんやなくって、ちょっとでも勉強したから来るっていう人たちが多かったから。帰って行っても、仕事行ったら工場の掘っ立て小屋みたいなとこで一人仕事してるんですよ。一緒になってそっから12時過ぎまで内職して、姉はそこにいないねん。

F: もう帰って勉強して自由にくらして…

L: いてないのよ。だから姉に向かってどうのこうの…それでもね、姉の子は罪ないから。あの子が卒業するまで(お金を)ずーっと送っていった。やっぱり学ばないと理解できないでしょ。自分の力で前向いて歩いてほしいから。だからうちの子らでも우리학교ほんまに辞めさしたかったですよ。ところが国を取られた人間、一世の考えと追いつかない私らが。だからアボジたちがこうやでって自分の国を取られ言葉も取られ、チョゴリ着たら炭をぶっかけられ、その中で生きてきはった人たちがようやく日本から解放され自分たちの言葉をしゃべれるようになった。自分の本名を使えるようになった。だからその喜びをあんたらに二度とね、そういう目に合わないように民族意識を植え付けた。

F: 追いつかないというのはどういうことですか。一世の気持ちに追いつかないんだっていうのは、

L: 追いつかない追いつかない。そんなん二世が一世になんか…

F: そうじゃなくても먹고 살이のほうが大変やって気持ち?

L: 戦争体験した人と、戦争全然知らない映像だけ見た人と、違いますよ。

F: それは違いますね。想像を絶しますね。

L: だからね、そうな風に言うてやるんやけど、ちょうどやってた、タブレットで「二つの祖国」このドラマ。もうここ、胸が痛い。

F: おお、「二つの祖国」。

L: うん。山崎豊子かな。この人の本でも読んで、置くとこないから一旦全部売って、また置いときたいやつだけ買うたれって。わたしが丁度卒業する前に、誰が忘れたの、ハワイへ移住する人の映画があったの松竹でね。やっぱりハワイへ行こうがどこへ行こうが日本人だ。日本民族の誇りを子供たちに持たせようって学校を作って行ったりするんですよ。一緒でしょ。ものすごいショック受けた。だから私が本格的に動いたの二十歳すぎてからだから。でも言葉を覚えるにしても(周りに)いないでしょ。あの当時なんか特にいなかったから。ほなら、深夜放送。

F: それで勉強したんですか?

L: ただ意味も何もわかんないよ?ソニーのこんなちっちゃいのだった。ものすごい性能が良かったのね。夜中の1時か2時ぐらいに。深夜放送でやったんですよね。ほんで、北の童謡、その中で一つ書いて子供に教えてってね。평양のほうでは言葉がどうもピュンピュンと跳ねて。韓国でもそうだけどね。여기 남편입니다、여기 남편입니다ってこれを覚えたかったっていうので、耳で覚えたのが多いのよね。そこで覚えた言葉を子供なんかに、主人がそういう人だったから、地引持って子育てした。家でね、日本語使うなって、こうでしょ。使うなって言ったってどういう(笑)喧嘩しながらでも、あの時大学書院の、これくらいの辞典が一つしかなかったの。それ持って。だから一世と二世の差はこうですよ。

F: あー、それを毎日感じながら生きてはったんですねー。大変や。

L: でもね、親たちは見てるから。ぼつぼつと話をしてくれるからね、だからこれもう日本に来てんねんけど日本語も朝鮮語もどっちも読めるの。どっちも書けるの。どうして覚えたのって言ったら…話ずれたな、ごめんね。 あの、(Oの父は)一人置いといて、アボジが亡くなったみたい。で할머니なるひとが日本に出稼ぎに出てて、だからひいばあちゃん、私からいうたらやで、ひいばあちゃんに育てられたみたい。そして家の仕事しながら外に行ってこっそり見てきて帰ってきて自分で書いて覚えたって。すごいなって思った。そやからいうて、ほかの同じ同胞らが近くに何人かいてもうたから。同じような年上の人の喋るんは喋っても書けない。オモニもわかってた。簡単な日本語も全部覚えていってるって。(私にとって)影響ものすごい大きいですよ。で、愚痴らない。まずこれです。

F: 努力してはるのに、愚痴は一個もなく

L: だから、さっき言うたように自分がいるその場所でどう生きていくかっていうことだと思う。何かがあってね、年末でもハルモニハラボジとこ行って帰ってきて、鍋を拭いて向くと目が真っ赤で腫れたのわかってるの。いつもそうやって帰ってくるわけですね。で子供がそんだけいてても、朝一人で食事作って。

F: オモニが一人でされてたんですか

L: あのね、アボジが5人兄弟。男3人女2人。でもね一番穏やかで親切だったのが一番下のサンチュンね。だからね、北へ帰るっていうのもそういう家庭事情。うん、向こうで勉強したいっていうのもあると思いますよ、でも戦後何年も経ってんのよ。第二次世界大戦でおかしなって、たった5年でできるはずないがな。そうでしょ、そこに帰っていくんだから。うん、その覚悟は甘かったと思う。たしかにヤクザと関係ってものすごく多かったの。私らの世代。チンピラヤクザ、どんだけ多かったか。それがみんな入ってんのよ。 だから普通に付き合ってたらすごく優しい、お兄ちゃんみたいな。オモニがなくなって行ってみたら黒い服着た人がずらーっと。噂には聞いてたけどまさか、とは思う。そういうのものすごく経験してるし。で、子供もまともにね、あの国行ったら救ってくれるからって言ってその地域の若い男の子らと帰らされた。それは親たちが帰らせたんやで。やくざの道にみんな入っていくから。

F: ヤクザの道に行かせないように帰らせたってこと?

L: やからヤクザなっていくのが嫌やから。うん、ちゃんとまともな人間に、向こう行ったら育ててくれるやろって。だから裏事情みんな別。だから第一線、帰った人なんか弟さんが将来絶望して鉄道自殺したのよ。それがショックで家族ぐるみで帰ったの。だからね、ただただ、たしかにね、寺尾五郎の本とかなんとかで、わたしらもふぁってなったときありますよ。それでも自分の国に帰りたいという意識は意思ほど強くないんだもん。ただ夢も希望もなくなってこれからどうすんねんってなったときに、そこで光が見えたんでしょうね。 姉ももうちょっと向こう行って勉強するからって。ここで看護学校出たんよ。当時は朝高出ても看護学校行けたのよ。途中で一回資格がないだのどうのがあったけどちゃんと取ってくれたもん。だからあの学力で向こうへ行って。私が40代入るまえかな。로동新聞とかみんな取ってたから全部送ってくる。ふっと見たら姉が載っていて日本の看護技術で教えてんのかと思った。(日本の)水準がそんだけ高かったってのがあるんでしょうね。

F: そうですか、なるほど。じゃあお姉さんが帰国されても暮らしも十分に安定的で。

**

F: 子供たちは家族が帰国して北にいることはどう思ってるんです?

L: それに対してどうのこうの言わない。「オモニに関することに対して俺らは何にも言わない」って。うん、だから自分らが食べるものなくて着るものなくても、ああって言ってごめんって。うん、ええよって。うん。

** F: (ご家族と)離れてると寂しいですね。

L: そうね。ベタって会ってるからいいんじゃなくて私が離れて生きてきたからかなぁ。別にべったりせんだっていいじゃない。

F: でも寂しかったんちゃいます?若いときは特に。お別れもいえなかったんでしょう?

L: 言う間がないっていうんかね。

F: すぐ(自分も)行くと思ってたから。

L: 荷物詰めてるときはもう母親の顔色を伺いながらその時に親戚と一発一番大きなのやって

F: 喧嘩?

L: うん。鉄の火鉢ここ、たばこ、ここ、ぶわーって飛んでった。灰皿。そんなんしとってん。文句言ってたから、かしかに할머니亡くなってその年だから。もう、あんまり腹立つから涙こらえて一生懸命荷物積んでくくってるのに、まだいじめていじめたらんと、まだやんのかー!ってこうやったん私。母親の前に立ったのよ。そしたらびゃーって灰皿が。

F: 当たらずに?

L: 当たったら死んでる。こんなんじゃないから。昔の鉄のあれあったでしょ、あれがうわっと飛んでったから。だから憎たらしいんやろ、もっと。泣き言言わないから憎たらしいんやろ。ほんであんまりきついから、ほんまにそんだけ憎けりゃ殺しに来いよって。憎うてたまらんのやろって。わたしだけやったら子供に来た時もそう言うた。子供全部、結局いとこがうちの子いじめてんねんやから。言えないよ。ほんでうちの子らが高校くらいになったら、やり返してんやんか。お前らは親父も親父、お前らもお前らやー!がーってやったらすーって引っ込んでん、そっちは。その分親がちくりちくりちくり、あんな身内は身内でおらんほうがいいの。 だから他人のちょっとしたことがものすごくうれしいのよ私は。普通やったらへぇっていうかもわかんないけど、すごくうれしい。

F: もしオモニとかお姉さんとかがね、一緒に日本に暮らしてたら違ってたんですかね、また。もしかしたらすごく信頼できる家族が…

L: いやー、ちがってない…、いやーあのね、うちの親戚がなんで北に一回も訪問せえへんのってみんなが言うから、「アボジが亡くなったらすぐ行くから見てて」って。ほなら自分が上に立てるから。わかる?おちびの頭になれるから。

F: あ、じゃあ(Oの)アボジが亡くなるのを待っていたってこと?

L: だから生きてる限りは自分が目下でしょ。

F: 弟やから。

L: うん。そのくらいの関係。まだとろいはあんたたち。すごく厳しいから。上下関係がね。 そしたら案の定だ。父親亡くなった後、行って。で、最初は私のアボジの名前で申請したらしいの。ところが向こう着いたとたんに、自分の姉ちゃんのほうに変えてそっちに行ったっていう。そんな人なの。だから、自分よりちょっとでも優れてる人が嫌なのね。だから私の知り合いの中でもあんたんとこの親戚、組織の人間かなんか知らんけど会費の台帳も一つ持って、なんであんだけ偉そうに歩くのって。そういうもんみんな。だからそういわれているってことを知らない、自分は偉い、賢いって思ってる。

**

F: さっきね、帰国したからOさんのオモニ長生きできたねって話日本の人から聞いたっておっしゃってたじゃないですか。オモニも本当にそんな風に思います?

L: 思う。もう4、5年もおったら亡くなってるやろね。精神的にやられて。いくらカバーしてもしきれないでしょ。なんでこんなんなんのかなって思ってたけど、うちのアボジが大阪の商家に丁稚奉公入ったって言うたね。丁稚奉公入ってその前金で、東淀川のどっか知らん橋の下で掘っ立て小屋で住んでたのを、家を借りて住むようになったらしいのよね。だからその後に生まれたのが今のその親戚(父の弟)なの。そしたら、自分の先に産まれた子は済州島おいてきて、あとで聞いて丁稚奉公行ってるって。育ててないのよ。할머니が育ててないわけ自分の手で。そうでしょ、済州島では向こうで할머니に育てられて丁稚奉公に入ってそこで20年、20歳過ぎまでおって、こっちで生まれた子が下手な長男扱い、と思う。そうじゃないかと思うねんね、私は。考えていったら。で、父親が頑張って早稲田実業通ったけど、とっ捕まって母親と結婚させられたっていうのは聞いたのよね。で、近くでやっぱり商売人さんとこ行ってたから商売、バフ加工所ていうのをやったのよね。バフっていうのわかんないと思うわ。バフ。きれいの砥石って言ったらわかるかな。鍍金したやつを磨くやつ。真ん中に穴開けて。丁度あの、兵隊さんの服が全部それに使ってたからね。その仕事をやってて叔父がなんか手伝いで自転車乗って行っててこけて足けがしたみたい。あの自動車にやられたりなんか私は全然わからんからね。それはお前のせいやって、父親に。親もずっと何年もやってきて、ほんで父親が向こうに帰った後にもうちの親戚が外に出て、そういうこと言って歩いた。まだそんなん言うてたって(思った)。だからこれがこんな大きな恨み骨髄になっちゃってたんじゃないかなって思う。かわいそうな人やなって思う。そういう風にしか思われへん人。親にそういう風にしつけられて生きてきた人やから、しゃあないやろなって。ほんで文句ぐちゃぐちゃ言うてたのに、ハラボジは後でまた帰ってんで。自分面倒見てへんよ。年寄りを置いて帰ったって言うオモニ先かえったから、할머니が亡くなってるのに할아버지がまだいてたじゃない。ほんなんやったらちゃんと面倒見たり、北がアカンっていうのわかってたら。そうでしょ?帰ってるもん北に。ほんでオモニに聞いたら、いいや、ようしてくれたよって私に言うてくれた。帰って苦労してない?って聞いたらハラボジもうかわってたよって。なんにも言われてないよって。だからあったかもわかんないけどね、わたしにはいわなんだ。だってハラボジ自体もオモニの知り合いアボジの知り合い、顔見たらこうしてたって言いよる。いやみんなから言われてた。挨拶できんのか言うて。それくらいの人やったけど帰ったもん。

F: そうですか。ハラボジも帰ったんですね。

L: だからうちの외할머니と一緒で肩書でも養子として迎えた息子がおるから、済州島に帰るって言って帰って、半年せんと自殺して…。もうたまらんかったで。だからね、2件許せないほんまに。할머니とか来るたんびに百万、二百万、五百万と持って帰って、山こうて、家こうて、ミカンこしらえて。할머니最後帰るときにオモニとこ行きって言ったのね。北に帰りって言ったの。オモニ自体が我が子と暮らしてないから。いいや、사돈がいるから行かれへん、て行かない。じゃ私と一緒に暮らそうやってオモニが食べていくのにも精一杯やのにわしがいてどうせいって言うのんて。どないでもなるからええよってならおいでよって自分の家ボロでもあったからね。息子がいるから帰るって。ただその息子でもこうこうこうで普通やったらちゃんと身を持てたんやけどっていろんなあったらんやけど、亡くなったいう連絡もなし。でもチベ(済州島)から連絡はいったの、亡くなりましたよって。え!?って。その後、近所で電話があって、国際電話で。そした할머니の、頼母子のノート出せって。

F: ええ

L: 人間信じられます?

F: それ済州島から?

L: うん。ほんでそのときうちの知り合いが家にいてたから、ちょっといいときにかかってきたのよね、電話が。とにかくすぐ呼んで来いって。もう事情用意してるから、うん、一番上の兄さんから電話入って亡くなったいうてここで小さく제사したからね、自分で。

**

L: 本はね、頭の栄養や言うて、本は買わせたの。学期が終わるごとに好きな本を買わした。「学研の科学」は買わせたし、その「学研と科学」を北に全部送ったから。勉強しろって言うて。だから妹の1人の手紙に、姉ちゃんのおかげで金日成総合大学出てるから。(他のきょうだいも)向こうの医科大で예술 공축 대하にも出ているし、半分はそっちのほう出てる。 ほんで、幹部してる子、남포혁명학원. だから金正日の戦士、その養成学校ですわ。どこにおっても学べって言うねん。学んだら何かが見えると。

F: Oさんの経験からですか?それは。

L: あのね、学べなかったから、学びたいちゅうのがあんのかな、ほんで兄弟多いでしょ。勉強する場所と時間ないのよね、ほんで朝早く起きて、あの昔の家やから、あの台所に、こう、板の間が長いのがね、半畳ぐらいあって部屋に入るから、そこへきて、勉強すんのよ、うん、それしかないから。 で、それとやっぱり、母親も、何かその、ほかの同胞の親とちょっと違ってたから。

F: どんなところが?

L: だから、いうたでしょ、あの、ハングルも読み書きできるし、日本語もできるし、で、近所の付き合い方がすごく上手。 なんか言うたら喧嘩腰に物言うて。もうすごいのよ、両面こう見てるから、穏やかで、ハルモニハラボジがキツかったから、くっと引っ込んでやった、くれたのやないやろか。 私らそっと行け行けって言う風によくやってくれてた。 うん、だから、ひとり残されても、こんなときオモニどうしたらいいやろ、こんな時どうやったんやろ、教科書みたいな形で居てくれてたから、生き延びてこれたかな。 苦しいてたまらんときは、(神社の)参道、ずっとこれしながら歩いてた。

参道ずっと続いてるでしょ、あれ今みたいに観光地でワーってなってないから。それとそやね、とにかく何を綴ったか今記憶に残ってないけど、とにかく書く、ほんで破る。それで自分の鬱憤をちょっと晴らすって感じかな。やないとほんまにウワァー言うところがないねん、そんで最近でもクソ!バー!って男の子みたいにグワァーやりたいって言う時は思うもん。私ここ(おでこ)傷あるでしょ、歳行ったからシワと一緒に混ざってるけど、ここに三日月があったの。戦争時分、倒れてここにグサーって切ったみたいで、ちゃんとした治療できてなかったからそのまま残ってたの三日月で。女やなんやかんや言うてきて、けむってきて、ター!て男の子と喧嘩やってたから、そう言う面ではキツかったかもわからへん。

F: 子供の時から負けん気のつよい女の子だったんですね

L: もうやられてんのわかって、こーい!言うて、やってたから、やり返してたな。 だから環境やと思う、ただただ守るだけではないね、ダメな人間になるだろうし、で自分というのを持てたっていうのはものすごい母親の影響大きい。 で、母方の、どういう仕組みになるんかわからないけど、一人徴兵で亡くなってんのよね。 やっぱりそういうのを写真で見たり、なにしてみたり、そういうの、みな向こうで持って帰ってるから、こっち一個も残ってないていうてね。で、人間形成はね、日本の人たちの子供会、一番あの出生率の高かった世代なのよね私らが。中学校なんて15~6組あったから、近所でも子供物凄く多かったから、韓国・日本人そんなん関係なしに、その方達やってくれはってたから。一緒にキャンプ行ったり何行ったりっていうが、お祭りも一緒にやったり、だから日本の方達に対する違和感ていうのはちょこっと違ってると思うよ。

F: 他の同胞たちと違って?

L: そうそう。だからね、朝大行った人なんか、あんたはなんで日本人と仲ええねん、なんで韓国人と仲ええねんて。ちょっとちょっとってて、朝大行って何習ってきてんだって私ほんとそういったもん。ほんだら向こうが、あんたがおかしいねんって、こうでしょ。あんたここ日本やで、日本の人と仲ようして何が悪いんのんて。 どういう風に習ってきてんの、そら表向きはそれ、中は違うもん。すごくねずぶかかった(根深かった)だから教科書通りの言葉で、だからもうずっとクエスチョンマークの生き方っていうんかな。だからって自分なりで、ある程度の自分の答えが出しながら歩いたんやろね。

F: クエスチョンマークがOさんの強みなんでしょうね。

L: やから、臭いもんにフタせぇて言われたからまともに、フタするから悪いねんって、こうやっちゃうでしょ。だから、そういう考えは日本の学校行ったからそうやねんて、こう出てくるの。朝高だけじゃなくて朝大をでてきた子たちが増えてきてるとそう言う風になる。

F: 組織を離れることによって北の家族と疎遠になっていきましたか?

L: それはね、もう遠いでしょ、ほんまに細い細い糸だけで繋いで、船が出てる間は荷物送ったけど、お金送る方法が郵便局ってのを教えてもらって、1回やったら成功したから、銀行より確かやったから。ただ後は確実に着く方法をどう考えるかっていうのんで、組織にいてるときに金日成の誕生日の日に、日本から電報送んのよ。 あとで色々相談したら、英文でいったら13文字か5文字が1つになって、ほんだら、それ1つで見てくれるから、それがわかって、そういう送り方と、今度は妹たちがどうやって出やすくするか。平壌に取りにこないとダメ、あの国がバカほんまに、ほだら七ヶ所から許可もらって、ほだら列車の通行証を1万円使ったらええ列車で早く行ける、ちょっとでも安く行こう思ったら、3日4日かけていく。どうやって食べ物して、どうやっていってたのかとほんまに思う。でもちょっとでも節約せんな、節約せんなて書いてくる、ほな、今度平壌で首絞められてお金10万円取られたのね。 F: 妹さんが?先ほどおっしゃってた?

L: そうそう。ほだら、それがカメラに写ってたみたい、あの当時から全部カメラ、私いったときでもビビってんだもん。妹の旦那たち、なんでって。カメラあっちにも、あっちこっちカメラあるってこや。あの時分からそうだもん、ほだら平壌でもそのカメラに写ってたっていうのよね、写っててなんで逮捕されへんねん。そやろ?これやったらできるはずやから、裏からちゃんとしとるわっていうねん、そのために交渉せいって。 それからは、平壌までは一旦いくけれども、他の人は知らんで、妹の場合だけはお金受け取ってそのまま、お金送れるようになった。それからは確実になったけど、次は関空で検査厳しなった。

F: 船では送れなくなった時分ですか?

L: 今はもうダメだから、全てがダメだから、郵便物自体がダメだから。戻ってきたやん、言うたでしょ。

F: 船便は2~3ヶ月かかるらしいですね

L: いやいや船便であれ何便であれ、いけるんかな?だってこれを送ったんが最初のやつあれ、10月に送ったやつやろ。で、先月送っただけのやつ、1週間ほどして戻ってきたから、おんなじようにあれ貼って。

F: もう全部封鎖してるんですね、今ね。

L: だからね、悪い時は、帰国当初ぐらいの日にちかかって着いてる時ありますよ。長い旅行したなって書いて送んのよ、最初のほんまに悪い時、半年1年かかってたね。それでも着くだけいいっていうの。

F: 60年70年ぐらいの話?

L: 60年なんかもっとですもんね。あの当時は今みたいに、交通手段が言い訳じゃなし、そりゃしゃあないな思いながら見るんやけど、ただ荷物送っててある時突然、印刷物、文字書いた物は一才ダメになったの、向こうからは前に言うたかな、チョゴリの作り方いろんなの教えてくれっていうて言われるから本も送ってっていうてんやんか。 それで荷物送るときでもそうだったの、電化製品でも入れたらあかんて、入れてもどうやって使ったらええんかわからへんやんか。どうせいっちゅうのんて、そんな説明書きもダメなんやで、だからしゃーない怒ってばっかりしててもしゃーないから手書きで、全部書いて。 だからね、ほんまに兄弟で、洋裁店できるぐらいのもんはそれ以上のもの送ってる。 ミシンも全部送ってるし、動力ミシン2台送って、ほんでもう買うたものの、卓上ミシン眠ってるこいっぱいおったからちょうだいちょうだいちょうだいて兄弟に全部いってる。その代わりミシンだけいったってなんもできひんでしょ。変圧器送らなあかん、ほんで材料、それは縫製側の社長さんが全部くれた、糸からなにからなにまでもうチャックから始まって、全部くれはって。これはぎれでくれたってあるから縫いやーって縫うのあんたらやでーって600枚。あとTシャツ、男も女も関係ないようにタートルだけで、友達と2人であの子も自分の姉さんとこ送ってっていう風に。こうやってみんなそうして助けてもらった、だからね、日本の方でも心広いて、そういうこと言って、受けてくれる人受けれへん人がいてるけども、だからいい人に巡り合ったから、それができた、ほんで、とにかくミシンどうなってんのてやっぱりそれか?って言うから当たり前やって、どんな思いしてミシン送ってんのって動力ミシン送ってるから。

これキルトスカートの作り方、教えて、端切れで버선の作り方、寒いから、端切れでこうこうつないでつないでつないだらこうなるからなって。もう私の荷物見たら、みんなびっくりしてわろてはった、傘持っていくのにゴルフバックみたいなの作って、傘20本ぐらい入れて。下の方あくでしょ、どないしても隙間あくから、ちょうどあの当時ビニールとかなんか全部入れて、喜んでたよ。で、どうしょうて、わしが学校に持っていくから、学校に直接送るより、そう言う風にしたほうが、こっちの立場がようなるから、認められるからみんなわろてはったけど、喜んでたよ。だから、みんなとまた違うねんやっぱり。ないところから勝負するから、お金に余裕あってなにあってするわけじゃないでしょ。 だから最初なんか、カップでもおんなじカップ、プラスチックカップでも全部残すのよね、綺麗に洗って乾燥させて全部やって、マーガリンでもバターでも、おなじの全部残してフタいれてなにいれて、で必ずビニール袋、とにかくうちだけでも10個からわけなあかんから それを全部いれる。そう言う風にして、ぜんぶして、ものを買えなくても、使ったやつで、だからヨーグルトでもなんでもええから同じの重なったら同じにできるわけでしょ

F: そうやって毎日の生活も考えながら。

L: そうそうそう。

**

L: 場所と性格とでやっぱり物凄い影響受けると思うのよね、私がね、親に見捨てられた3人の子供連れてきた。 もうね、きつかったんですよ、私、なんかいらんこと言われんように頑張れっていう気持ちでやったから。普通自分の子供に、通じるから通じると思うのに、言葉が全然わからなかったのよ。怒られてても、何で怒られてるかがわかんなかったって、だからねほんとに電話かけるでしょ、でてこないのよ。 もういいわって、それも1つの政治の仕方と思って、いつまでもなんやかんやでやられたくもないし、もう自分で充分生きていけるんやから、言うたでしょ奥の家に住んでんだから ほんで、子供らのほったて小屋からここ来た時、いやぁオモニ水洗トイレや家のなかにあるわって言うてくれたわほんまに。(※朝鮮人で乞食のように集落から外れた掘立小屋で暮らしていた3人の子供らが、朝鮮学校や組織からも見放されていたことを見て、Oはその3人を引き取りほとんど育てあげた。「このままでは朝鮮に送られてしまう」と思い、そのような行動に出た。)

Interviewer: Rina Hong

Interviewee: Lee Ok Ja

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Transcript Notes


  1. Goro Terao (1921-1999) was a Japanese writer who wrote books that gave unqualified praise to North Korea. His books influenced many Koreans in Japan to return to North Korea, only to be disappointed at the dire state of affairs there.

  1. Consider, in light of the family’s changing views of North Korea before and after they went over, the extent to which the Cold War was a clash over imagined visions of an ideal society, with varying degrees of congruence with reality. What novel insights can we gain in the study of the Cold War in East Asia and globally using this paradigm?

  2. Assess the role of organizations like the Chongryon in shaping the Cold War experience for people like Lee Ok Ja.

  3. How does Lee Ok Ja’s testimony illustrate her agency in navigating the Cold War era? How does that challenge the traditional historiography of the Cold War in Asia?