Second Interview With Buten Tai Wan

In this second interview Buten Tai Wan elaborates in greater detail about his early life and military career in Cold War Taiwan.

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Buten Tai Wan begins by recalling that his parents were not stably employed with a firm in his early life, but instead worked ad-hoc jobs to support the family. The Second Sino-Japanese War and World War II (WWII) left few employment opportunities available in Taiwan. He only studied until fourth grade, and most students dropped out to begin work. His school was far off in an airfield in Northern Taiwan, clustered with other schools. There was a river nearby, and it was difficult for him to get to school when it rained and the river broke its banks. He studied with aboriginals and ethnic Chinese classmates, but Japanese students had separate schools in the city.

    After dropping out, he was conscripted and assigned as civilian support staff. He was responsible for cleaning and managing the stocks in a warehouse in Hualien Harbor. They kept various kinds of food supplies in cabins under the mountains. However, this job, like all military roles, did not pay well, as Japan was also impoverished due to the war. Most indigenous Taiwanese youth like him were drafted under the universal conscription program, but those who were not called up appealed to be taken as volunteer troops, and succeeded.

    When Japan lost the war in 1945, the departing Japanese administration thanked the Taiwanese for their contribution to the war effort. Buten had Japanese friends who bade him farewell. Some even offered to bring him along to Japan, but the Taiwanese were barred from leaving the country by the new Kuomintang (KMT) administration. KMT troops also seized the supplies he had been managing, formerly owned by the Japanese. They did not use force against the storehouse staff, but had them stocktake and handover the remaining supplies. The storehouse no longer had work for him, but there were not many other employers. Many demobilized military workers returned to the mountains or coastal regions, planting any crops they could. He later became a wholesaler of goods.

    At age 31, he married a fellow Sakizaya tribe member from his hamlet. Youth at the time could not marry outside their hamlet, as the youth of those other hamlets were hostile to outsiders and threw stones at them to signal that they were unwelcome. Buten himself experienced this hostility. While he did not face any danger for his previous work experience in the colonial military, he had to be careful not to anger KMT officers, who could shoot civilians they were unhappy with. 

    He also joined the Tenri religious sect (Tenrikyo), noting that many elderly members of the tribal communities from his generation are also deeply piousindividuals. He explains that he was drawn to the group as it taught people to be good and seek a better place in the afterlife. Yet he also attends the Presbyterian Church. Once, he visited the Tenri Sect’s school in the mountains near Oita Prefecture, studying the religion for a week When relations with Japan normalized in the 1980s, he took a short course in Japan related to his job, with friends, and still regularly visits the country.

5月22日(2回目)47分32秒 Q: お母さんとお父さんて何してたんですか?

A: 昔は働いとる。お父さんは会社なかったでしょ。その時は外で仕事したりここで仕事したり全部自分で働いて食べてた。昔そう、戦争が長いからね、支那事変から大東亜戦争になってしまったら、もうその先はもう本当に苦しかった。仕事もできない人が、敵が台湾に来て、出るのが怖かって、もう苦労したね。お父さんなんかは。僕はまだ子供時代。その時僕はまだ20歳かなあ。戦争が来たよ支那人が。支那人が来て、もう、、、日本はもう支那人に半分やって、まあこっちの、、なんて言うかな、そん時も、台湾の若者がバンマン(幫忙:助ける)してるの、切り込み隊の兵隊ね、その時は、、、ニューギニア、フィリピン、行って、あちこちよ。インド人とこも行った、何々、国行った。その時も皆あの小さい国が負けて。今度は大陸からアメリカと連絡して、アメリカがバンマンしたの。それで日本は負けた。長いことでね、人間はその時死んだの多いよ。私らも負けて、日本が負けて殺されたわけだ。それでも日本が負けて、皆帰ってきた。兵隊はね。戦争に行って。それだけで何もないよ。

帰ってきて、台湾に帰ってきて、台湾におるのは台湾におるね。台湾におる(日本人)のは皆帰ってきてから、日本帰ったの。それ時でも、日本人も悔しかったと、知っている人も多かったから。友達もおったからね。僕は、日本は、大東亜戦争の時に食べ物もないって、日本は言うちょる、台湾も同じですよ。食べ物ないよ。皆兵隊に送って、戦争に送っていろんな村の食料はね。その時は皆苦労したよ。それで何もないもの。それで約2、3年経ってから日本は帰らせたの。3年してからここは1年以上台湾で勘定して、どんなどんなか、って細かくして帰ったの。もうそれだけよ。 Q: 日本が帰る時ってどうゆう気持ちでしたか?

A: 戦争の時は日本精神だからもう、、皆お互いに、「さようなら」、「ありがとう」、台湾にありがとうと挨拶して帰ったの。「本当に、ありがとう。手伝って、長いことこんな大東亜戦争に付き合って、本当にありがとうございました」、日本はこんな挨拶したの。日本が挨拶して、帰ったの。もうそれだけね、別にないでしょう。フィリピン行ったとかこれは皆あの、僕は台湾の兵隊でもその時でもあるけど、切り込み隊は別の切り込み隊があるから、年過ぎたら兵隊にされないよ。だから申請して、「うちは義勇隊になりたい」ってなる人も沢山ある。台湾にね。申請して、皆戦って、義勇隊になったの。その時は大東亜戦争だったから、それでもアメリカ人も危ない、台湾の兵隊は危なくて、向こうはアメリカ大分殺されたって。そんなこと言うとる。それで別れたの、日本と。台湾は日本に行くこともできないの。

日本はここにおることはできないよ、皆帰らせたよ。許さないよ。本当には帰りたくない人がおるの。それを中国は許さない。皆帰らないと。それだけしかないよ。戦争は台湾に来てない。ここへ軍艦入ってきて、軍艦壊されたから、あの大きい軍艦ね、壊れたから上陸できないよアメリカ。それで、皆互いに殺された。その時はあまり爆弾も日本に使ったからね、日本使って、戦争に使ったから、何か分からないけど、原子弾をね、使って、落としたの。それでね、台湾も危ないって。酷いって、原子爆弾も。もう負けた方がいいと言うことで日本は負けたの。それだけよ、何もないよ。

僕は兵隊の軍属。兵隊の品物、食べ物とかね、弾薬とかね、全部ね、倉庫に入れるの。片付けるの。守る。それが軍属というね。作業所ね。

Q: それってどのくらいのお給料ですか?

A: 給料はその時、、、兵隊はマーマーフーフー(馬馬虎虎:まあまあ)、少しだけよ。少しだけ。その時は日本も可哀想でしょう。貧乏なったよ。

Q: 戦争が終わったらその仕事ってすぐ無くなったのですか?

A: はい。あの、僕はあの手伝いね、作業所の仕事もうないよ。品物は皆あの大陸の兵隊に、接収するよ。勘定して、皆、残る。その時はもう大陸の人も上がってきたからね。もう、勘定、品物皆調べる。調べてから、日本は帰った。品物何、何、って皆写してね、書いて、それで日本は帰らせた。それだけよ。

Q: その後って何のお仕事してたんですか?作業所の後は、、

A: 船が、日本から着いた食べ物ね、車で運搬して、倉庫に入れるの。山の下に。あちこち山の下に小さい子や作って、複数の小屋作って、皆そこに置くの。米とか、魚とか乾かしたやつ、何でも沢山あるよ。ビシビシ置いて、品物は皆、支那人が取ってしまったね。返さない、支那人とってしまったものもう取ることは出来ない。弾薬でもね、鉄砲でもね、接収されたよ。接収されてもう何もない。日本は何もない。もう帰ったよ。別に無いよ。

Q: その後って、お仕事何してたんですか?花蓮港の仕事が終わって、、、

A: どんな仕事でもいいよ、食べ物あったらそれでいい。会社もまだできてないからね、その時はもう皆山とか何処とか、働くんだよ。置いて。自分の生活にする。それしかないよ。その時はまだ税金無い。何年なってから税金あったかは忘れたね。自分で探して、野菜置いたり、芋置いたり、何置いたりしたよ。その時ね。

Q: 兄弟っていらっしゃいましたか?

A: 兄弟は僕の兄弟は皆行ってないよ。一人は軍属。台北の作業所。向こうは人数足らないから、引越しさせて。僕の兄弟は男3人しかないよ。後お母さんお父さん。皆外に仕事して、自分の生活の物しか置いてない。何でも野菜とかを売ったりして。もうそれだけ、何も無いよもう。

Q: 小学校に行ってたんですよね?

A: 僕らの時代小学校あったよ。遠いだけよ。歩いて。あの、飛行場あるでしょ。小学校。朝も、朝晩、遠いね。もう、雨降ったりすると、わあっ、本当にうるさいね。川もあるし。水もあるし、もう雨降ってちょっと大きくなったら僕はもう勉強できない。

Q: それは原住民だけの学校ですか?原住民と日本人?

A: その時は日本人はない。僕は原住民とか本省人とか一緒に勉強した。日本人はその時は何学校かな、町にあったよ、花蓮港に。日本人用の学校が。区別したよ。

Q: 昔日本人のお友達とか居ましたか?

A: それは居ましたけど、うーん、働いてから、一緒に仕事した方ですね。皆も友達なって。こっちにも昔日本人帰ったときね、帰ったとき、日本は台北に、僕は一緒に働いたの、あの、石のコンクリを作って、何を何を作って、向こうは僕を手伝ったの。日本人の。向こうにも、同じ苦労、言うてるこっちも「昔あー本当に苦労したの」。「いや、こっちにも同じ苦労したよ」。皆苦労してるよ。そこに知ってる友達会いました。軍属の入った時に、日本人もおったの。一緒に働いて。

Q: そのお友達とも戦争が終わったらさようならしたのですか?

A: ええ、もう帰った時には、さようなら。まだ帰って来てない時は、「もう、あんた日本人、行きたいか?」っていう友達もおる、「一緒に魚とり行こう」って。船に乗って、魚とり行くって、どこだったかな、日本はどこに住んだかな。僕は忘れたよ。それが、行くか、一緒に帰りましょう、それがね。行かさないの僕らに。台湾の人が行かさないの。渡航を許さないの。 Q: その日本が台湾からもう日本にもう撤退した後って、日本人と関わる機会ってありましたか?

A: ない。全然ない。

Q: 軍属として働いていたじゃないですか。大陸の人が来た時は大変でしたか?

A: そうはない。僕は倉庫係だけしかない。僕らは皆外へ大陸の人がいて、日本と一緒に勘定して、これはいくら、いくら、って。それだけ。大陸はもう皆接収されたよ。全部品物ね。

Q: その、大陸の人が来てから、もともと日本精神を持っていた原住民の人って大変な目にあったりしなかったのですか?

A: しない。負けて、日本負けたから、もうあんなことはしない。もう、殺されたら大変だもん。皆互いにはい、ハイ、ハイ。日本の品物これだけ、皆あれ書いた書類をあげて、あの、中国が調べて、これは何、これは何って、調べて合わすんだよ。皆合わせて。合わすんだよ皆勘定。ほんっとに勘定するよ。それで合わせて精算に合わせて、これはこれ、これは合わさない、これはこれ、って調べて。その時だから日本の品物皆大陸取って帰ったよ。

Q: 戦争が終わってから日本語話す機会ってありましたか?

A: うーん、帰ったときね、もうあまりないね。原住民はもう原住民の言葉だね。たまたまに、遊ぶ時には、笑う言葉ね、ありますよ。

Q: お父さんとお母さんは日本語でしたか?

A: 原住民(語)。何も話も分からない。

Q: 日本が撤退してから、大陸の人と原住民て仲良くしてたんですか?

A: うーん。その、何も用事がないから、ないね。ちゃんとここ調べて、原住民は、名前誰、皆調べて。名前誰、一軒一軒調べるんだ昔。それだけ。

Q: 日本の軍属だったということで、何か危険な目にあったりはしませんでしたか?

A: ないね。やっぱ注意してる。危ないから。いらんこと言うたら、引っ張られたら大変。だからちょっと話したかったら、鉄砲打つかも分からない。それだけ。怖いね。

Q: 周りの人でそう言う人もいるのですか?

A: いないですね。

Q: 今中国語も話せるんですか?大陸の言葉も。

A: 家?うちの生徒だけは、若い者だけは、ばあちゃんじいちゃんとかは言わないもの、僕らの時代も、はっきりはよく分からない。勉強してないから。それでも、日本の4年生退学してから、もう全然勉強してない。日本語も。なんにもないよ。4年生、こっちは4年まで行ってない、遠いから。歩くのは遠いから、2年前で退学したの。朝も早いし、もう、あの先生来たら、礼して、隠れる。おったら、先生から叱られてしまうでしょ。怖いよ。親父はもう探して、僕はもう出ないよ、怖いよ。毎回。その時は何か分からんね。

Q: ご結婚はいつされたんですか?

A: 結婚は、私は31歳。原住民、サキザヤの、同じ部落の。その時、別の部落行ったら、若い青年は叱られる危なくて。もう、石を殴ったりされるよ。向こう遊び行ったら。殴るんだよ、石を投げて、何殴ったかわからんよ。

Q: え、なぜですか?

A: 向こうの青年でしょ、入ってはいかないと言う意味よ。別の原住民ね。僕は夜見えないよ、石を殴るんだよ、危なくて。だから、夜も行かない。

Q: 学校では、原住民のお名前は日本語でしたか?

A: カタカナ。漢字ない、カタカナ。日本が台湾に来て、何年かわからないけど、その時は、名前書くところはないよ、昔警察だけよ。警察行って、名前つけるだけよ。「ここ名前つけなさい」、僕らの年。

Q: 何小学校でしたか?

A: 北方。北方公学校。飛行場にある学校。北方学校。その時に学校は全部あそこに集まってたの。人間はそれだけです昔。今の人間は多い。昔は、人間はね、少ない。

Q: 何人くらい生徒っていましたか?

A: 学校に勉強してるやつは、一施設は五十何名くらいだね。まあ、就業するまではもう何名もないもん。

Q: やっぱり皆辞めちゃうんですか?

A: 退学してる人もある、ほんと落第もある。厳しいよ。2年生でまだ2年生から行けない。まだそのままよ、2年生。もう友達は3年生。自分はまだ2年生。もう沢山昔いたの。十何名もおる。

Q: 戦争の後に苦労したことはありましたか?

A: 僕は仕事沢山、仕事ばっかり、朝は勉強、昼は仕事。もう、1年生は皆カタカナ、2年生は漢字は一個一個出てくる、漢字ね。4年生行ったら皆漢字になる。1年生だけ皆カタカナ。

Q: 仕事は何でしたか?戦争が終わってから、仕事は何をしてましたか?

A: 僕は車、昔品物卸したり、運搬。それしかない。この辺のあの、町のあの仕事したの。

Q: それはお友達とですか?

A: もう、僕の友達もないね。私今95歳ね。もう友達もないね。あるけど、もう歩けないものもある。100歳のおじいさんもいないもの。おじいさんはもうこっちはもう僕だけよ。

Q: 天理教はいつから信仰してるんですか?

A: もう、、、日本時代帰ってきてから、もう、教会あるんだよ。長老教会とか、天宗教。日本にもあるよ。何年もないかな、十何年間しかないよ、まだ。勘定したら19年くらいだね。 自分の精神で。向こうはもう、善い人間になると、死んだら善くなると言うから入った。入らんと、悪いところ入る、いいところはいらんと。だから皆入った。

Q: 原住民の人は宗教入ってる人多いですよね。何故ですか?

A: わからないね。今の生命がよくなりたい関係らしい。死んだら良いところ入るって言うんだから。天国帰るって。本当かわからないけど。日本にもあるよ。長老教もあるから。僕は長老教にもあるよ。日本は天理教もあるでしょ。一週間も僕勉強したよ。天理教のところに。勉強して働いた。日本に。天理教。その時もう何年かわからないけど、天理教、あの大分の方に。天理教行ったよ。高いところ山の中。あそこ学校あるよ。

Q: 結婚してからお子さん何人いらっしゃるんですか?

A:4人。男女2人ずつ。 Q: ブテンさん、日本には行ったことありますか?

A: 行くよ。ちょいちょい行くよ。自分でもうわかるもん道は。あの時は1ヶ月。一番長いのは、子供守ったときよ。向こうにおったら向こうのじっちゃんと遊んだのよ。東京。病院はもう何回もよ。家には3回しかないよ。別居してるのよ。お父さんところ行った時はまだ2回しかない。日本の向こうは百姓してるの。東京の。 若い時よ、六十何歳ときよ。僕らの仕事は茨城県だったよ。茨城県の講習入った。友達も行ってるでしょう。こっちも行きたいから一緒に行くの。日本は礼儀いいよ。礼儀。

Interviewer: Megumi Hagiwara

Interviewee: Buten Tai Wan

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Transcript Notes


None

  1.  In light of Buten Tai Wan’s recollections, discuss how the state, in both colonial and postcolonial eras, actively constructed an identity for aboriginal communities like the Tayal. Consider their experience of citizenship in Cold War Taiwan, and what parallels can be drawn to other aboriginal communities in Cold War Asia.

  2. How did the Cold War change citizens’ relationships with the state in Asia?

  3. Consider how poverty and deprivation shaped Buten’s experience of the Cold War in Taiwan.

  4. Assess the role of religion in helping Buten navigate the Cold War in Taiwan.