In this 1st interview Buten Tai Wan briefly discusses his early life and military career in Cold War Taiwan.
Born in 1924 into the Sakizaya Tribe in Hualien Harbor, Taiwan, as the youngest of 6 children, Buten Tai Wan begins by recalling his early education. He had to walk long distances to elementary school, which discouraged many children from attending, as they were at risk of getting lost. As Taiwan was already under Japanese rule, he did not learn his native aboriginal tongue, and only his grandfather’s generation was fluent in it. He began working from the age of 13, doing odd jobs such as blowing glass at cinemas and polishing footwear. Eventually, he joined the military as a civilian support staff. Though he was not a combatant, he served in a worksite, helping to clean and organize a storehouse in Hualien Harbor, for a meager salary. He also explains that most of Taiwan’s World War II (WWII) veterans were from the volunteer corps, while the regular troops were still in training at the time. After WWII, all the warehouse staff were dismissed, and had to seek self-employment.In this 1st interview Buten Tai Wan briefly discusses his early life and military career in Cold War Taiwan.
5月17日(1回目)(27分24秒)
A: 僕はあの、台湾の若者その時、兵隊はまだ戦ってないのよ。まだ訓練してるの。戦ってるのは義勇隊しかないの。
Q: お友達かご兄弟で義勇隊に行った人っているんですか?
A: もうおらないよ。
Q: 今っておいくつですか?
A: 96、、あ、95才。民国13年だから。
Q: すごい。お元気ですね。
A: でももう無理だ。危なくて、もう
Q: 原住民のおじいさんおばあさんは皆元気でびっくりしました。昔は学校に行ってたんですか?
A: 昔は一緒だったよ。日本のは六十何年ぐらい台湾におったね。
Q: 何学校ですか?
A: 小学校。僕はじいちゃん、もう過ぎたんだ。勉強しないのもう。まだ本当の学校は2、3件しかないよ台湾に。あまり学校行かない。歩いて行くんだよ昔。
Q: それは日本人と一緒ですか?
A: こっから北方まで歩くよ。子供はそこまでいかないよ。皆退学してるよ遠いから。あの時。だから子供でも学校行くの怖いもん。(道)間違ったらもう。1年生から4年生まで。
今の若者は同級は無くなったね。昔社会出るところもない金もない、毎月授業料出されないよ。
Q: 学校はお金払わないと行けなかったんですね
A: ええ、毎ヶ月払うよ。仕事する所もない。
Q: 周りの人で高砂義勇隊って行ってましたか?
A: もうおらないよ。皆死んでるよ。過ぎてる。ほとんど90なったよ。もうおらないよ。僕は作業所。兵隊もできない。もう年齢もあの年過ぎたからなれない。だから作業所。兵隊の手伝うだけ。
Q:色々話してくれてありがとうございます。
A: もうだいぶ忘れたよ。やっぱ忘れるね、話さないと。
Q: そうですか。でも今も話せてますよ。間違ってないですよ。中国語も喋れるんですか?
A: 。。。?
Q:原住民の言葉だけですか?
A: 喋らない。分からないよ。ただじっちゃんだけ。下の子らは皆分からないよ。何も分からないよ。日本人帰った時僕まだ若いから。今日本帰ってもう60、70年以上でしょ。
Q: ありがとうございます。
A:ここまで本当にすみません。
(王さんからブテンさんに)今年いくつ?
95。今(王さんのお父さんとは)2才の差、93。民国10年。いま民国13年。
(王さんから自分に)沒關係,他很多知道的。
Q: もう、聞いたので大丈夫です、、、
〜‘〜王さんとブテンさんの会話(サキザヤ語)〜〜
A: 軍属。手伝う人よ。兵隊ね手伝う。
Q: え、軍属だったんですか?
A: ええ。軍属
Q: 何年くらい行ったんですか?
A: 僕は花蓮港だった。これ(王さん)のお父さんは台北まで行った。同じ僕は作業所の兵隊。手伝う兵隊。
Q: どうして軍属になったんですか?
A: 自分の都合でしょ。
Q: 何年行ったんですか?
A: うち花蓮港だったよ。倉庫片付けて、品物沢山おるでしょ、なんとか皆守らないといけない、仕事しなきゃいけない、日本から来た食べ物にも、皆運搬する、それが手伝って、兵隊も足りないから、作業所の兵隊だけじゃ。本当の兵隊は違う。本当の兵隊は義勇隊だよ。義勇隊だけ。その時兵隊、本当の兵隊はまだ戦争行ってない、まだ訓練中よ。そして日本負けた。まだ戦争行ってないよ。
Q: 戦争終わるまで軍属だったんですか?
A: 終わるまで軍属だった。
Q: その後また帰ってきたんですか?
A: 花蓮港におった。、僕の仕事は花蓮港。これ(王さん)のお父さんの仕事は台北。
Q: 戦争が終わってからこっちに帰ってきたんですか
A: 僕は皆、作業所は皆仕事もないから、皆帰った。解散、皆解散。
Q: そのあとってなんの仕事したんですか
A: あとはもう自分の仕事しかないよ。生活も関係ない、自分で仕事する、百姓。仕事しないと食べるものもないよ、工場もない、仕事するところもない、自分の力で生活した。
Q: 何歳から何才まで花蓮港で働いてたんですか。
A: 僕は13才から仕事してるね。
Q: 13才?そんなに若く?
A: まだ子供よ。その時は映画館のところでガラスを吹いて、下駄を片付け、やるしかない。
Q: 何才まで仕事を?
A: その仕事は、何年しかない、もうやめて、大きくなって、また別の仕事。給料少ないでしょ。また変わらないといけない。ここやめてここへ来る、ここやめてここへ来る。
Q: 軍属のお給料も少なかったんですか?
A: ええ少ない。軍属は少ない。日本給料少ないよ。気持ちだけ。
Q: 日本が台湾からいなくなったじゃないですか、
A: 解散して帰らせたよ。中国が帰らせたよ。「あんた方、負けたからもう帰りなさい」って。今から出かける。もう誰もおらないもん。追い出されたよ。皆帰りなさいって。その時日本の友達も出会ったことあった。「わあ、僕ら日本に帰った時から僕は仕事するところもない、金ない」、友達も言うた。山に行って、日本に来て、台湾に来て、長いこともうおった人と、帰って土地もないでしょ。山のとこ行って家建てる。子供、海の近くで家建てて、帰った時ね、日本。日本山におって、山に帰った人は本当にきついって。何もない、野菜作って植えて、食べ物残りを街に送る、金持ってない。
Q: 大変だったんですね。
A: 日本のところ、皆きつい。同じよ。
Q: 今はもうキツくないですか?
A: 今だったらもう田んぼも沢山。今の子供は幸福よ。朝晩働かないといけない。
Q: いつから生活はキツくなくなったんですか
A: そうね。大東亜戦争なってから、その時は誰もあの時誰も働いてないからね。
Q: 昔って原住民は高砂族って呼ばれてましたか
A: 原住民?そう。一番入ってきたのは支那。入ってきて、何か分からないけど、ただ手紙出して、日本に手紙書いて、中国は帰った。そして、日本はここへ来て戦った。私のじっちゃんの時よ。そして日本がきて、台湾に。勝ったから。僕なんか台湾の人は負けたから。ほとんど戦争ね、台湾負けたから。(21:00~21:30聞き取れず)今の世界もまだ戦争あるでしょ。
Q: ちなみに日本のお名前はなんでしたか?
A: その時まだ変えてないよ。今同じ。今、孫福来。
Q: このお名前、いつからこのお名前になったんですか
A: これは中国が来た為にこうなった。ブテンタイワン。カタカナよ。ブテン・タイワン
Q:じゃあ日本語の名前なかったんですね
A: 日本語の名前はこれだったの。カタカナで。
Q: どっちのお名前の方が自分らしいと思いますか
A: ヘッヘッヘ。まあ自分を思い出して欲しいのは、自分の名前。中国きてから変わったの。日本時代は、これ、中国語は、これ。身分証明の名前。
Q: 何人兄弟でしたか
A: 5名。
Q: とお母さんお父さん入れて7人?
A: 僕のお母さんは男の子は3名、女の子は3名、一番末っ子。姉妹の子供、一番大きい子どもは僕もわからんね。いつから亡くなったかわからんね。皆おらないもん、兄弟一人は僕。兄弟もないよ。お母さんお父さんも亡くなった。
Q: もうすぐ100歳ですね。
A: ええ。90歳もう。
Q: 毎日ここに来るんですか?
A: 政府はおばあちゃんおじいさん元気ないから、保障させて。
Q: 昔ってどこ出身でしたか
A: 同じ花蓮港。サキザヤ。
Q: ありがとうございました。
A: ありがとうございました。
Q: また今度遊びに来ます。ぜひ、お元気で。
A: お体大事にしてくださいね。バイバイ、ハハハ。
Interviewer:
Interviewee: Buten Tai Wan
Transcript Notes
None
Discuss how poverty and deprivation shaped Buten Tai Wan’s experience of the prewar and early Cold War years in Taiwan.